『日本画』ってなぁに?ver.2.0
2006年10月、「日本画ってなぁに?」という文章をサイト上にアップしました。このサイトのトップページにもその文章へのリンクが有ります。当時私が考えていたことをまとめたものですが、あれからずいぶんと時間が過ぎました。ここのところ、その次となる試み、テーマ、IT関係ではありがちな表記ではありますが<『日本画』ってなぁに?ver.2.0>を一度まとめる必要性を感じていたのです。世はゴールデンウィーク、徒然なるがままに。
2011年の秋、不思議な御縁から熱海MOA美術館収蔵の尾形光琳作 国宝 紅白梅図屏風を再現制作する機会をいただきました。間近で実物を拝見させてもらう経験、そして光琳が描いたのと同じ大きさで描くこと。文化財保存のための模写ではなく、絵描きの為の模写を大手を振って行う機会が空から降ってきたのです。※関連する事柄については、以下リンクにまとめてあります。http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/kouhakubai/index.html 上記画像で紹介の講演会で私がお話したのは「光琳に倣う日本の美」について。この再現を行うにあたって絵描きの私に求められたことをテーマにお話しました。はたして「倣った」のは何か。
心がけたのは、抽象的な精神論ではなく、具体的な話とすることでした。結晶学という物理学を中心とした「場」であったということもありますが、これまで私が<『日本画』ってなぁに?>で探してきたこと、言葉を連ねて来たことをまとめ話す機会となったのです。はたして来場された方々に伝わる言葉となっていたかどうか。伝わる言葉になっていたなら嬉しいのですが。
書き記す道具としての筆、墨、紙、そのそれぞれが原初の時代に求められたことを手がかりに、具体的なそれぞれの用途とは何か、実現が求められた性質、機能とはどういったものだったのか、そしてそれらを使いこなすということとはどういうことだったのか?を一つ一つ検証する内容となりました。 それら価値観の実現をもっとも簡潔に表している表現としての「たらし込み」という技法の話。 それは同時に、これまで古くから使われてきた絵の具を顧みることにもつながりました。同時に求められた「膠」の性質についても。何故、粒子の大きさの違いを愛で、比重の違いを楽しんだのか。また楽しむことが出来たのか。
これらのことを考えることは、わたしにとって琳派との新しい出会いとなりました。 「筆」で「線」を引くことから始まった探求は、「墨」という手がかり、「膠」という手がかりを得たことで、より具体的な「水」を使うことの意味の確認へとつながったのです。
柔らかい毛を使う意味、柔らかい筆記具。竹の筒、軸。 西洋の筆記具が固くなる道を選んだのに対して「柔らかい」ということに価値を何故見つけられたのか。そしてそれをより洗練させてきたのか。毛先の振動を伝えやすくする作り、素材の選び方もその一点に向って来たように思うのです。
墨に求められた機能とはどんなものだったのか?それは、カーボンの粒子、大きさの意味を考えることだったり、接着剤としての膠を考えることにつながりました。その過程で膠は接着剤としてだけではなく、カーボンの粒子をコロイド状に水の中に浮かす働きを知ることになったのです。
和膠に求められたこと。 適度な水分を保持し、柔軟性を持ち続けること。墨を作った場合、分散性がよいこと。これらに脂肪が深く関わることがわかってきました。分散性が良いからこそ、カーボンが沈まないのです。 胡粉という絵の具の溶き方、使い方とオーバーラップする内容を確認出来ました。
求められる防染効果を出すような筆使い、実はこれこそが確実な記録を実現する書法、運筆という言葉に繋がる基本となるものだと思うのです。そしてそこにどのような意図を込められるのかが筆意となるもの。使う材料、道具がもし同じなら、違うのはそれを使う肉体となります。形を真似する・・・・それよりも筆の動く時間間隔をつかむことこそが私にとって大切なことと感じられたのです。 描かれた時間。それは、求める結果の実現に必要な存在。 いかにその時間を描かれたそのものから読み取るのか。 その手がかりの在処。水の性質は、平安時代も江戸も、大正も、昭和も、そして平成も変わらないのです。だからこそ「水の時間」に注目する意味があるのです。「水の時間」と聞くと抽象的なイメージのように聞こえるかも分かりませんが、水が乾燥に要する時間と言い換えても良いのかも分かりません。水を使って描く絵、その水が置かれ、そして乾くまでの時間がいろいろなことを教えてくれるのです。 普遍的なイメージの共有。 この「手がかり」と呼んでいる存在に価値を認め「共有」できるこの国の文化のありかた。 それが私が考える「水の時間」なのです。
「水の時間」その存在を伝えることも、現在の私の重要な一部となっているように思います。なかば当たり前とその存在を担保してきた「そのことを知る素材との関わりや出会い」が明らかに身近な社会、教育の世界から無くなってきているのを感じるからです。 日本画と呼ばれる、呼ばれてきた存在の私がよいな〜と思う何かを支えてきた道具や素材、そして表現手法は、単なる記録する材料、道具としての役割が終わったあとも、それぞれの場で暗黙の了解よろしく「水の時間」の素晴らしさを共有するために生きながらえていたように思うのですが、社会でのART 西洋的な近代思想の反映か、その存在理由がぼやけていくにつれて、その存在自体も危うくなってきました。 あえてそのことを伝える必要がある社会になったと言い換えることが出来るかも分かりません。なぜならそうではないものが当たり前のように増えてきたからです。 先に書いた「手がかり」に価値を見出す文化のありかたは、言い換えるなら「手がかり」を残すためにこそ素材、道具、手法、技法があったとも言い換えることが出来るかもわかりません。素材の吟味、シンプル、制限のある手法だからこそ、自分自身の身体が反映されるのです。 成長というものをどのように捉えるか、道具、技法(作法・手法)による訓練される「身体」ということも、今日的なテーマとなるかもわかりません。 素材の選択、吟味。道具に求めたこと。
膠(ニカワ)がそうであったように、紙や絹も同様です。もちろん表具も。それぞれが何故このような形、姿として伝えられてきたのか。 俵屋宗達の線を手がかりに考えてきたこと、光琳に倣ったのはあの紅白梅図の大きさ、ストロークを実現する体についてでした。全ては「水の時間」を手がかりにしたのです。
昔々、文字が読める人は、もちろん書かれた詩歌の内容については、すでに知っていたに違いありません。情報となるものはその部分にはある意味なかったのです。どのような紙を選び、どのように筆を走らせるか?確かに文字の形、配置にもビジュアルな意味があったことと思います。しかしそれ以上に筆という道具、墨をどのように使うことができる「人」であるかを見て取ることが大切なポイントでなかったでしょうか?。同じことをすれば違いだけが見えてくる。同じことをすることに意味があるのです。 こうしてコンピュータで表示されるような文字の並びによって現される「何か」自体が重要な情報ではない価値観の世界。どのフォント、どの大きさを選んだかでもない世界。 どのように筆や墨、水を使って紙、絹、支持体と呼ばれるものと交歓したのか?その関わりの姿こそが重要な情報であったように思うのです。 個性を認める。 違いを認めあう手法として条件を揃える事ができるということも重要なことかもわかりません。もし、平安時代と同じ紙、同じ墨、同じ筆を用意できたら、明らかになるのは描き手の「時間の違い」となるように思います。遠い時間を越えての交歓も可能な世界です。 色と構図によって作り出される世界は、確かに大切な要素ではあるのですが、この「水の時間」に注目することによってある意味でのタイムマシンを手に入れることも出来るように思うのです。
「水の時間」に注目することによって出会える世界。 この国の道具、素材は「そのことを確認するため」に生まれてきたようにも思います。これこそが私が掘り下げていきたい「日本画ってなぁに?」の次のテーマなのです。コンテンツよりもコンテクスト、もしかしたら現在の文法に添った新たな提案ができるのではないか、そんなことも思っているのです。
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しかし、ふと気づけば当たり前と思っていたことがそうではなくなり。ずっと変わらず存在していると思っていたものが簡単になくなってしまうような出来事に遭遇するようになりました。多数であることが物事の主導権を握る世界であれば、自分自身が大切にしたいと思う事柄について、そのことをなるべく多くの人に伝え、大切と思ってもらう共感への活動がたとえ微力であっても必要であることを痛感したのです。