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10/10//2015  材料技法

ステンドグラスと日本画

■ 関わっている仕事の一環として湯河原にある工房※「クレアーレ」を訪ねました。伝統的なステンドグラス製作工程の一つ、絵付けを実際に行うためです。専門家の中野竜志先生に指導、支援を受けての作業、使用する材料、道具、かつて大学時代に実習したことが思い出されます。あれからずいぶんな時間が過ぎました。私自身が専門とする日本画とのそれぞれの対比、文化比較がとても興味深く感じられました。

※クレアーレ熱海ゆがわら工房(パブリックアート制作を主たるテーマとして開設された施設です 大規模な壁画、ステンドグラス、陶板、立体などの制作に必要な設備、専門スタッフが常駐しています)
 
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大変立派なステンドグラス工房!、規模の大きな作品制作を十分にサポート、制作できる素晴らしい環境でした。画像に写っているのはこの部屋全体の四分の一程度です。この他にも展示、打ち合わせのためのスペース、部屋があり、またこれらすべてを合わせたより大きな陶板、壁画工房(ちょっとした工場程度の大きさ)が併設されています。


奥に見えるアンティークガラスのストックが素晴らしい!。

 
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なぜこんな記事を書こうと思ったのか?

上記画像手前に見える道具箱
絵付けのために使う筆、刷毛、そして材料が入っています。

当初絵付けの作業には使い慣れた日本画の筆がよいのではと持参したのですが、思うような線が引けないのです。※グリザイユ(とかエマイユ)と呼ばれる素材(微細な鉄とガラス粉末をアラビアゴムで混ぜ、水を加えたもの)、水彩の絵の具、日本画で使う絵の具とごくごく近いはずなのに。粘性といい、”筆おり”の具合がしっくり来なかったのです。

※グリザイユ テンペラなどで使われる「グリザイユ」という呼称は、単色で明暗を描き出す作業自体を指す言葉としてであったりしますが、ステンドグラス制作では、素材(絵の具)を表す言葉として使われているそうです(フランスのステンドグラス工房等)。

 
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そこで、先の画像に並ぶ専用の筆を試しに使わせてもらうことにしたのです。

・・・・すると、最初こそ違和感がありましたが、すぐにコツがわかってきました。動かすのに必要な情報が手にレスポンスされるのです。逆に言えば、日本画の筆は、このグリザイユ素材に向いていない(私の使い方が合っていない・・)のかもわかりません。

 

このおりの感覚は、中国水墨の筆を使った時に近い気がしました。

筆の腰が強いのです。水性ではあるけれど粘性の高い状態の絵の具をタップリと置いていく感じ。日本の筆はこれに比較すると、粘性に対する許容度が低い、逆に言えばそういった粘りを使う絵画ではないと言えそうに思ったのです。

私が西洋の道具に対してイメージするのは、コンテンツはすでに自分自身、使う我が身、脳の中にあり、それを効率よく実現・表現するために最も適したものが道具であり、道具の習熟のために時間を費やすなんてことは本末転倒、本質では無いのです。

このことはイラストレーター(Adobe Illustrator)というアプリケーションに求められる機能を考えてみるとわかりやすいかもわかりません。確かに使用するのはアウトプットの美しさ、便利さ、作業効率、使い回しが効くことも考慮されるかも・・・の為です。確かに使用することによって、手作業で線を描く訓練をしていなくても、スムーズな美しい線が簡単に実現されるのです。この時、きれいな線を描くことがそもそもの目的ではなく、きれいな線を使って描き出される結果こそが目的なのです。だからこそ、こういった作業は誰にでもできるように、抽象化出来る作業の一つとしてプログラム化される・・・・。

対して、日本の道具は、(私個人の勝手な思いかもわかりませんが)、(素材・材料との)コミュニケーション性が重視される。例えば関わる日本画で言えば、和紙や絹といった素材との接触感、水の感覚のフィードバックが重要になり、それとのやりとりとして筆を動かすのです。あえていう、「筆という柔らかいもの(小野竹喬さんのことばより)」が指し示す感覚の在処、日本画の中で大切と考えられるものの一部は、この時生まれるのではないかと思うのです。

そして生まれたものは、自然そのものが持つ、人間が惹かれる「何か」に繋がる。
 
言語の異なる民族、国家が隣わせ、陸続きで存在する大陸文化のあり方と、この国、日本の様に海に囲まれ長い間隔絶して存在した国の文化熟成の違いを思うのです。良い悪いの問題ではなく。世界が実際の距離を越えて近くなる今だからこそ、島国、そして鎖国の時間ということを改めて思うのです。それは自然のルールと一緒に生活するということ、平和であるからということに繋がる価値観の様に思うのです。
 

 
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さて左画像は、バジャーブレンダーという刷毛だそうです。

上記で書いたような会話を中野先生とするうち、ステンドグラス固有の道具について紹介していただくことが出来ました。

目的は先に出た「グリザイユ」を均等に伸ばし、均一に光を透過させない基準となる面を作ること。

 
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粘性のあるグリザイユはなかなか均一には塗ることが出来ません、逆にある程度同じ分量を分布させるように絵の具を定着させる、横縦とメッシュを作るように筆を動かし、その筆跡については考慮しない。面積にほぼ均等に絵の具が行き渡ったら、このバジャーブレンダーを使い<<撫でて>>均一にして面を作っていくのです。
表面には乾燥後も撫でた跡が残っていますが、目的と光の透過がほぼ均一な面を作る目的は達成されています。
 

 
 
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対する日本画の同様の機能を実現する刷毛

空刷毛です 使い方は、ほぼ同じですが、私の使用感で言えば、<<撫でる>>のではなく<<水の中の絵の具粒子を動かす・移動させる>>のです。

だからこそ、乾燥したあと生まれる面は、手の痕跡を感じさせないのです
光の透過コントロールではなく、この作られる可視の面のスムーズさこそが目的なのです。

扱う絵の具の粒子サイズによってそのことはより明らかになります。

そうしたこと、そのような使い方を目的として、私自身、長年にわたり作業、制作を行ってきた結果、一般的な絵の具塗刷毛を使用しても、同様なことが可能になりました。確かにこのような専用の空刷毛でなければならない場合もまだまだあるのですが、道具との関係の作り方は、身体自体を変えてくれるように思います。

 

ステンドグラス制作の素材、道具の感覚。試しとして「(紅白梅制作で行ったような)流水」を描いてみようと行ったおり、一番の違いを感じることになりました。それは渦巻き、西洋の筆は捻じりに対して許容度が低いのです。日本画の選んだ筆では、グルグルとうずを描いても命毛の先はその線、形に追従して廻りますが、西洋のものは、はねてしまうのです。手の中で筆を回してカーブを作る・・・・持ち方自体も異なる必要があることになります。

※10月15日追記 日本画の筆が向いていないと感じた理由は、ガラス表面が滑らかすぎて「かかり」が感じにくいからかも?。微細な凸凹を捉えるのが「筆というやわらかいもの」の特性だとしたら、やはり、まだまだガラスに対応できていない・・・腰のある筆を使うことで、「思い切り」がよく描くことが出来た(ように感じた・・・)と、そんなことを思いました。(よく締められた料紙の上で筆を動かす・・・腕が必要ですね^^;)