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1/6//2009  レポート

「京都画壇に咲いた夢」展・図録

■ 徳島県立近代美術館で2008年10月〜12月にわたって行われた展覧会で、すでに終了しています。
<幸田春耕、暁冶父子と京都・徳島の日本画家たち>とサブタイトルがあります。徳島出身の春耕は、京都に出、絵を学びます。その子、暁冶も父と同じ道を歩むのですが、この二人が過ごした明治から大正、そして昭和初期という時代は、ある意味で「日本画」の黄金期であったように思います。一方今日、ともすると風化されてしまいそうな「日本画」という存在を考えるとき、なんらかの将来へ繋ぐ可能性を見つける手がかりがありそうな時代でもあります。

私自身、拝見することが出来なかった展覧会ですが、縁あって図録を拝見する機会を得た事から、書き留めておきたい事など備忘録もかねて。
 
展覧会図録表紙より。暁冶作「花売り」1970年<br>
>> 展覧会図録表紙より。暁冶作「花売り」1970年<br> (7.34KB)

もちろん会場で実物、作品を見る事が展覧会の大きな意味であることは言わずもがなですが、作成された展覧会図録に新たな気づきを与えてもらうことも多いものです。

学芸員の方々、専門家の方々の地道な調査、資料集めから見えてくる何か。幸田親子の画業を中心に据えながら、徳島との関係、京都画壇、ひいては近代日本画の存在について思いを馳せる内容が、順序立てて一つ一つ作品とともに紹介されており、大変参考になりました。
 

 
展覧会図録裏より父、春耕の作品「牡丹」
>> 展覧会図録裏より父、春耕の作品「牡丹」 (2.91KB)

幸田親子が亡くなったあと(父春耕は1976年、暁冶はそれより早く1975年に亡くなっています。)、特に私のように岡山で生まれ、その後に東京で絵を学び始めた者にとっては、このあたりの時代の流れは、いろいろと考える中で、あまりに時代的に近すぎて、また京都と東京といった画壇的なこともあってか、ある意味で抜け落ちていた視点といったものを感じたのです。
この図録をこうして手に取って見ることが無ければ、この方々の作品に出会うチャンスがあったかどうか。(これも必然の出会いかもわかりませんが・・)紹介されている作品群を見て、自分自身にとても近い時代の表現であるからこそ、30年前では気づけなかった何かに出会えたように思います。

私が東京に出たのが昭和51年(1976年)、日本画を受験しようと思い、いろいろな展覧会を見るようになったころ、亡くなっていたのです。

当時、美術館等での作家企画展、公募展、時代、歴史と言ってよい展覧会と、この国の物にとらわれず、とにかくいろいろなものを見ましたが、いかんせん何も知らず、問題意識も無かったためか、好き嫌いの範疇でしか見ていなかったように思います。

 
暁冶の「駝鳥」1960年作。こうした表現にヒントを得たと思われる作品が私が画学生の頃多くあったことを思い出します。展覧会図録より
>> 暁冶の「駝鳥」1960年作。こうした表現にヒントを得たと思われる作品が私が画学生の頃多くあったことを思い出します。展覧会図録より (11.89KB)

大学に入学し、日本画というものを意識して見るようになるのですが、比較に用いたり、基準としたのは、やはり子供時代より見る機会のあった大原美術館の所蔵作品、洋画と呼ばれる作品だったことを今、思います。日本画なのに洋画を比較?と不思議かもわかりませんが、ある意味では何も知らないからこそ、そのような見方が出来たのかもわかりません。同時にそのことはその後のコンピュータを使ったCGも同様であったのです。

暁冶の駝鳥の絵、冠鶴、秀こうのような表現をこうして見せていただくと、当時、東京で見ていた絵との関係を思います。工藤甲人先生、稗田先生方々のある時期の作品、またその後のいわゆるわたしより少し先輩たちが試みた表現。繋がるものを感じます。

暁冶もやはり大正生まれ。またお父さんの春耕が絵描きであったこともあって基本的な技術の伝承の意味は大きいでしょう。だからこそ大切な事を見据えた上で、離れる事を革新的に行えたのかと思われます。

私が当初探すときの手がかりにした、大正期の京都日本画の流れ。その継承の姿がここにありました。そこから現在の我々へと繋がるわけですが、問題意識の在処は同じくするものを感じます。図録では、何人かの見知った方々の言葉も紹介されていました。この岡山ゆかりの方々との縁もまたあったのです。

当時の京都画壇がもっていたエネルギーの在処。力強さを感じます。


この辺りを改めて見返すと、当時、発表されていた作品の傾向といったものがごく自然なものと思われてきました。私が東京で見ていた絵画もやはり同じ文脈のものも多かったように思います。


”しかし!”なぜ、私自身がそこに探す手がかりをと思わなかったのかというと、当時、私も含めまさしく「変化」のまっただ中にあったからだと思うのです。

こう見てくると、私自身は、当時、「分化」する前の段階、可能性を「自ら」探す手がかり、分岐点として大正時代、明治も含めた流れを見据えようとしたのでは無いかと今、思っています。その後、その根底、価値観のベースをより遡った古い絵画、江戸、室町、平安へと探す動きにもいたりましたが、分岐して行くなかで、何らかの価値観が崩壊して行く過程のまっただ中にいたのだと改めて思うところです。ある意味で、当時見ていたものの多くが、オリジナルから遠くなりすぎて、私のような不勉強な者にとっては捉えどころの無いものに見えていたのでしょう。このことは現在の一般鑑賞者にとってはなおさらのことですね。

かっての変化の段階のそれぞれの中に、現在に生かせる可能性を見つけることは出来ないか?そんなことを思いつつ、活きのよい表現ができれば、繋がればと思う年初です。