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1/16//2009  思うこと

「日本語が亡びるとき」を読んで

■ 知人からの薦めで、水村美苗著「日本語が亡びるとき」を読みました。読む前のイメージとしては、かってな解釈ながら、このタイトルで使われている「日本語」という言葉が、もしかしたら私のかかわる「日本画」という言葉と置き換えて読めるのではないか、また、何らかの未来に対する提案が書かれ、参考になるのではないかと、漠然とした期待もあって読む事にしたのです。

購入するにあたって、まずはといつものようにGoogleで検索をかけたところ、昨年秋頃からすでに話題の本であった事がはじめてわかりました。Amazonで紹介されているカスタマーレビューを読むうち、はたして期待通りの内容なのかと不安になりましたが、購入。読み進めました。
 
夕日
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確かに、Amazonのカスタマーレビューに書かれている通りと概ね賛同すると同時に、指摘されている不具合といいますか、確かに突っ込みどころの存在について、気の毒に思う感想も持ちました。

私の意図的な読み方もあったと思いますが、<何を問題とし、それをどのように捉えるのか>が実はこの本で一番重要な内容であり、このことについては期待に違わないものであったと思います。一方、何度も繰り返される表現や、いわゆる「言語」に対する厳密な意味での理解とか、近代化をどのように捉えるかといった部分についてなど、詰めの甘いところもあるように感じました。この本をどのように評価するかは、書かれている内容の何処に焦点を当てるかで変わってくるように思います。

私は、問題意識の提起という意味で面白く読ませてもらいました。

 
笠岡竹喬美術館正面入り口
>> 笠岡竹喬美術館正面入り口 (45.23KB)

読書後、当初の私の期待についてはどうだったかについて。

明治維新、明治、今更ながら近代化と一言でくくるには凄すぎる変化の時だったと、気づかされる出会いの一つとなったように思います。

現在、当たり前と思って行っている動作、例えば「歩くこと」が、この国に住む多くの人にとって変化したのが明治という時代であることをかって三浦雅士著、「身体の零度」で読みました。歩く動作、リズムに合わせての行進。「笑い方」の変化などなど。

 
華鴒大塚美術館エントランス
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言葉を使っての「考える」といった根本的な事、「個人」とはといったことまでが、多くのこの国の人にとって変化したのが明治であり、また今、インターネットという存在、ネットワークと繋がる事によって、「考える」ということ自体がまた変化の時を迎えている事。

やはり、かって読んだ三浦雅士著、「考える身体」で書かれていたことを思い出しました。