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7/31//2009  レポート

日本画実習法 第三編 一般画法 二、運筆法

■ 川合玉堂の著した「日本画實習法」はたして「日本画」の何が変わって、何が変わっていないのか。気になる部分を備忘録がてら感想など。その6

※要約をこうして書き留めようと思うきっかけになったのはこのあたりからです。
 

<運筆について>(※ここからしばらく引用。文字など一部修正しています。)
さて、これからいよいよ運筆のことであるが、このようにしてできた絹や紙に筆をつけるのである。これが運筆で、運筆は日本画の基礎であって、これがしっかりしていなくては秀れた絵はつくれない。故にこの練習を熱心にして、描写表現の基礎をつくるがよい。運筆を稽古するときには紙を仮張にはらなくてはならない。そのやり方は用紙の裏に刷毛でうすく水をひき、周縁二三分通りに糊をつけて仮張にはるのである。はってからも表からかるく刷毛で皺のないように刷きそれから乾燥するのである。そのとき日光に直射させると礬水の効力をうしなうから注意し、また紙を仮張にはるとき、その一隅に小さな紙片を挟んでおいて、絵が出来上がってからその紙片をひきだし、そこにヘラをいれて絵を剥がすとき面倒のないようにするのである。練習用の紙はどんなものでもよいが、必ず礬水をひいたものでなければならない。例えば唐紙でも美濃紙でもよいがもっともよいのは美濃紙ぐらいであろう。

<輪郭の描き方>
いよいよ仮張りができたならば手本を前にし、その図を描き習うのであるが、はじめよく手本をみてその大体の輪郭を木炭で描く。その手順はだんだん述べてゆくが、木炭の輪郭が正しくできあがったならば、手本と見比べてその相違を訂正するようにする。最初は拙くとも、構わぬという調子でそれを抛っておいてはいけない。もっともしょっちゅうそう誤りを正すことは苦しいことであるけれども初学のうちに、物を正しく見て、正しく描く腕と心掛けを持っていないと、だんだん才がきくにしたがって、自我流にヘンテコになってゆくものだ。しかしこれが習慣になってゆくともう大作をする場合にもしっかりした物を描くことはできなくなる。輪郭の正しさは手本と自分の描いたものとを何かで測るぐらい最密にし、それからその上を今度は筆で手本通りに描いてゆくのである。

<絵筆の持方>
その時筆の持ち方は字を書くときと大差なく、なるべく軽くもって姿勢を正してかく。紙は小さいものなら机の上におき、大きいのならば席上におくか或は画架にのせるかしておいて、自分はその紙の前にまっすぐに座り、手首はかるく紙上にふれるぐらいにして肘を上げる。
どうしてかというと、肘をつけると運筆が自由にゆかず、線なども曲がったりして活気のないものができるからである。それで気品のある生き生きとしたものを描こうとするためには、最初から肘を上げて描く事を稽古すべきである。これは書道も同じであろう。
 ことに初めは肘を上げてかくことは難しいから、肘をつけて手首だけを動かして描こうとするが、これは後で力のこもった作品を描く時にいぢけた筆付けしかできない悲しさを味わうものである。
 だからといって手首だけで描く場合がないかといえばそうでもない。しかしそれは肘を上げて描いていれば、わけなくかけるものである。そういう場合は特に決まっていて、人間の顔だとか花びらの細部だとか細かい模様だとかというような難しいところを描くときである。が、それは初学者には不必要である。

<筆力ということ>
大きな画面に勇健豪壮な筆力をふるうは、ふと考える時は左の手をまっすぐについて全身を支え、歪まないようにして、右の手は手首を画面にふれず、いつも同じ姿勢をとりつづけて筆を運ばねばならない。そうしないと画に力の抜けるもので、こんなことは些細なことのようだが最初から努力実行すべきである。輪郭を正しく描く事は前にのべたが、今度は筆力を手本と同じようにつけることである。筆力とは描写の持っている力で、それが画面を生かすものであるから、諸君は手本を見たらまずこれを感じなければならない。すなわち筆付が強いか弱いか、柔らかいか硬いか等を見分けるのがそれで、いやしくも絵の面白さを感ずるものは、そこにその絵の筆の働きを認めねばならない。この筆の動きが筆力で、これが細かくいっているか荒くいっているか、また細くいっているか、太くいっているかを稽古するのが筆力の稽古である。

<画筆の速度>
これにはまた筆の速度もあって、同じ力の筆痕でもこの速さによって感じを異にするものである。筆がどこかで早く走り、どこで遅々として遊んでいるかを稽古するのが、運筆の主な稽古である。
形が手本同様に正しいからといって、それだけでよい絵が出来上がっているわけではない。筆力の千変万化をも習わなくてはいい絵はできない。そこが稽古の骨で何十回あるいは何百回描こうとも、形の模倣のみであったら、その絵は死んだのが出来上がったにすぎない。要するに運筆の練習は、形のみでなく絵の筆意のあるところを了解して、その表現につとめるにある。しかしこれとて千変万化の筆法がある故、そう一時に覚え込むのは困難であろう。だから一筆づつでもそれを会得して描くように努める他ないが、大体の筆力をざっと見ておおよそ頭に入れ、それから部分部分を描くのも良い。

<稽古の仕方>
また一つの手本でも初めは切り離して、花鳥ならその花だけとか,或は鳥だけとかを稽古し、後にそれらのものを総合して全体を稽古するのも良い。それももっと詳しくなってくると、鳥でもその頭部だとか胴部だとかというのを稽古し、のちに全部についてけいこしてもよい。しかも描法は一つの技法であるから、一つの絵を幾度も幾度も描いて、後それが自分の頭でひとりで編んでゆける程度にまで、なにから何まで憶え込んでしまうまで稽古するのが良い。そのうちにそれらの技巧は自然と自分のものになって、初めは人のかいたのを見、人の手本によって教わったものが、今度は自分のもののように消化されて、物をみてもそのとうりにすらすらと描けるようになる。無論これはある程度まで技巧を教え込む方法であるから、後になったら自分の欲するような技法によってかくもよい。がこれはよほど腕がすぐれてきてからで、すべての點について一通りの日本画の描法を覚え込んでしまってからである。


※ここで46ページ。 今回はほとんど原書から書き写しです。運筆の技術がある意味で日本画の価値観を特徴づけていると書いてあるように思うのですが、はたしてどうでしょう。玉堂は意識してか、せずか、どちらにせよ「日本画ならあたりまえの事」としてかいているように思います。勉強法の紹介は、「絵の見方」も含んでいます。線に時間を感じるくだりの紹介は、今日的な意味を大きく含み、新たな提案になる部分だと個人的に思っています。

次回は三、臨画法 からです。