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9/12//2009  レポート

日本画実習法 第四編 彩色法 三、極彩色法

■ 川合玉堂の著した「日本画實習法」はたして「日本画」の何が変わって、何が変わっていないのか。気になる部分を備忘録がてら感想など。その10
 

<極彩色法>
極彩色法は彩色法の中で一番難しいものだ。
秘法、口授などと呼ばれるものがあり、流派の門弟であったとしても容易には伝えなかった。
しかし、科学の発達した現在ではそれらの口伝秘法もたいした物ではなく滑稽でさえ有る。
科学的な考え方、捉え方が出来ない頃(昔)は、長い経験の中でちょっとした事を見つけるのでも苦労したと考えられる。科学的な物事の捉え方、考え方があたりまえとなった今なら、それぞれ学ぶ者各自の研究によってそれらは雑作も無い事である。結果、秘法などあるはずも無いし、尊重もされない。

<経験について>
しかし!絵の技術といったものは、科学的な物事の考え方、捉え方などよりも経験によって先に知る事が多いものだ。
絹本へ引くドーサの濃淡が及ぼす結果のこと、気候の変化(湿度や温度)が絵を描く時に大きな影響を与えることなどである。

例えば曇り空の日(湿度の高い日)は、枠に張った絹の張り具合は緩く描きにくい場合があるなどということである。

ただし、ただ経験、経験と言うばかりでは実効性が無いので、学ぶべきそれぞれを具体的に説明する。

<彩色の秘法>
古来の大家が伝えて来た経験、秘法を土台として新しい絵(描き方)は存在する。
古いやりかたを学ぶことを遠回りなどと捉えてはいけない。古い事を知った上で新しい何かに応用する時こそ学ぶことの価値は存在するのだ。

新しい日本画には 従来に無い強烈な色彩を用いる場合もある。
新しい日本画には 古来行われていなかったほど淡彩で描く場合もある。

強烈な色彩を使って描こうとするような場合、この極彩色法が役に立つはずだ。ただし、学んだからといっても、この極彩色法は、斑(むら)が出来やすい(上塗りの荒い絵具をむらなく均一に塗る事は難しい)技法であるので、手際良く行うためには多年の習熟と巧みな工夫が必要な事に変わりない。

<その内容>
下塗りから順序立てて絵具を重ねて行く手法は、決っして古くさいものではなく現在でも行われている。ただし古来の技法があまりに規則的(どの上塗りにはどんな下塗りといった厳密な対応関係を持っているため)で有るが故に古くさく感じられるのだ。
それは洋画の場合も変わらないのだが、日本画の場合、特にその関係を古来より継続して厳密にしてきたからかもわからない。

※実際に少女を描く場合の絵具の作り方、塗り方、水の使い方など解説。

<地隈について>
大きな画面で地隈を行うときには前もって水をひく事が重要なテクニックとなる。そのおり引かれた水のコントロール(遊んだ状態の水を造らない)が重要だ。

※着物など大きな面積を塗る場合の注意。塗る順序の意味。近年、隈取りの強さが弱くなった事について、線書きの彩色時の扱い方など具体的に説明。彫り塗りの説明。

<合せ色の仕方>
具体的な上塗りの絵具に対して、対応する下塗り絵具について。
一般的な色は、同系色の濃淡によって行われる。(明るい色が先で濃い色が上塗りである)
群青(粒子のある岩絵具)の下塗りは白群かもしくは胡粉に藍を混ぜた(藍の具)である。
緑青(粒子のある岩絵具)の下塗りは草色(胡粉+ガンボージ+藍)もしくは白緑青を用いる。

上塗り絵具は薄い膠を大量に入れ幅の広い筆を平たく使って色を置くように塗る。

※足袋の色は紫で、藍+臙脂+胡粉を混ぜて作る。

<模様描き>
※着物柄の描法、人物画を題材に具体的な絵具の混色、塗り方を解説。なかで、照隈(もしくはかえり隈、胡粉で行う)、地隈(暗い色、陰影として丸みを表現する時など使う)の説明。

※具墨(胡粉+墨)の使い方、別名、胡墨の説明。
眉、眼などを描くとき、極力薄い墨からはじめ徐々に濃い墨で暈す。そのおり、絶対に濡れているときに行ってはいけないという注意。

※着物を着た少女像の仕上げまで説明。顔の描写など絵具の混色、塗り方、暈し方など具体的に解説。



※ここで63ページ。日本画の絵具を使ってそれなりに描いているならすでに経験則で知っている事柄が多く具体的に紹介されている。絵具を塗る場合の基礎と呼べるものばかり。注意なども的を得たものだ。ただし、倉敷市立美術館で講座を行うようになって知った事だが、こういった基礎的な事柄の伝承が意外なほど出来ていない事に気づく。何事においても自由ということがことさら強調されてきた過去とも関係があるのかもわからない。

また、絵具の説明をする場合一般的に、明るい<>暗い これは明度を現し、 鮮やか<>鈍い は彩度となる。
同一色相における薄い色、濃い色といった言いまわしが、明度の違いを現している事がわかっても、色相が異なった場合のそれが他の色と比較して,明確に(どちらの方が暗いとか明るいとか)実感出来るかについては、西洋的なデッサンの学習/訓練が役に立つだろう。
一方、絵具の濃度といった言い方をするときには、絵具を膠で溶いたあとの水の加え方が問題になる。
学習において言葉を明確に使い分けるといったことも重要なことに違いない。

ここで説明されていることは、確かに理解してしまえばそれほどの事でもなく、当たり前のことばかりだ。しかし現在、一般の受講者に日本画を指導する立場に立ってみると、こうした学習における考え方や、取り組み方法(玉堂の言う科学的な見方をもった研究、実習)の実践が実際に一般社会で行われているかと言うと少々不安な状況に思える。それはこと日本画のみに限った話ではないが、小学校や中学校における美術の授業、基礎教育のありかたとも関係しているように思えるのだ。
また、日本画ならではの「水」の使い方の学習については、通常、材料、道具である「筆」や「紙」「絹」とどのように接するかが問われる。現在において一般的とされる描き方が、代表的な公募展との関係もあって、素材、技法においてそれぞれが固定化されがちであることも関係するだろう。古いと思われる技法、材料、描法にも一度ふれてみる事で、比較対象できる何かを知り、また違った選択肢が得られるのではないかと思う。


伝統教育の必要性といった言葉が今日聞かれる。
はたして伝統と言う言葉に具体的な姿、形をを与えるとはどういう事なのか?またその実践は?かってあった素材や技法の多様性に今日的な視点(玉堂のいう科学的な見方)でもう一度向かうことが求められているように思う。またそうでなければことさら伝統を今持ち出す必要も無いだろう。
エコロジー、自然との関係構築のありかた、この国の文化を再評価する事はこうしたことからも行えるように感じている。