日本画実習法 第七編 風景画 三、樹木の描法
<木の描法>木を描こうと試みるときには、先ず大木、幹の太いものから初めるのがよい。その理由は、大木には苔むした面白さがあり、また根元には風雨にさらされた形状の変化が見られ、枝も交錯していて写生するのに大変面白いからである。練習者(学ぶ人間)は、まずそういった対象をたくさん描いたあと、森や林、並木などのように徐々に複雑な風景を写生するのがよい。雑木林等は、大木一本を描くよりもずっと複雑で難しい。枝を写生するときには、まず正確に写し取る事を大切にする。従来の日本画には、杉や松の描き方に「型」、形式があった。枝を描くには「鹿角法」を用いよとか、葉を描くには「松字点」や「介字点(點)」を使うといった形式をただ教えていた。しかし、新しい日本画を描こうとするとき、そんな決まり事にとらわれる必要は無い。最初、それらを参考にするぐらいはよいが、習熟の後は自己の道をひらいてゆくという覚悟が必要だ。これからの風景画は、他の写生のように、結局は没骨画法で描くことになる。だからこそ、筆意も諸家の模倣ではなく新しい表現を必要とする。従ってその写生も、場所、季節、時間などそれぞれをいかに表すかをそれぞれが研究する必要が有るのだ。<枝の描法>木や幹、枝などは、実物通り写し取る事も難しくはないが、葉のような細部をどのように表すかについては悩むものである。誰しも木の葉の錯然とした様子を写し取る事は難しいものである。よしんばそのまま写し取ったとしても絵になるものでもない。むしろ絵にするなら何らかの形でまとめる必要性を感じるに違いない。このまとめ方こそが勘所なのである。<省略法>まとめるということは、いかに省略するかということである。省略をいかに行うかは難しい。描くそれぞれにそれぞれの考え方があるものだ。まず大体の趣をつかみ、一目で何が描いているのかわかるほどその特徴をつかむ必要がある。つまり、特徴を主とし、残りを省略して描かないということだ。最初は難しいが、経験とともに容易くできる様になる。あらゆる絵にはこの省略法がいくらかなりとも含まれているものだ。実物の通り描かなくともそれを描いたがごとく効果を得られる様になるのだ。<葉の描法>枝や葉のように複雑なものは、なるべく遠く離れて描いたほうがよい。近すぎれば不要な部分がどうしても目に留り却って肝心の枝や葉の特徴と言ったものが見えなくなってしまう事もあるのだ。要するに、枝や葉を描くには細部にとらわれずに大局をとらえ、大意を描くようにすればよい。しかし、この大局をいかにとらえるかこそが初心者にとって難しいことにほかならない。だからこそ、かって「型」によって描き方を学んだのだ。今になってみれば、こうした「型」=「省略法」の使用は、陳腐に見えるが、いかに描く対象と向き合い、どのようにとらえるかを描き方を通して効果的に教え、伝えたかと考えると、その功績を認めざる終えない。<幹の描法>木の幹を描くときには、まずその立体感の表現に注意をはらうべきだ。また、いかにも地面から生えているという表現も大切だ。例えば「竹」を描いたおり、「竹」が平板に見えてしまうそれである。それは、表面的なものの姿にとらわれて全体感といったものに注意が払われていないからである。山獄は、多くの場合、遠景として描かれるが、時として中景として描かれる場合もある。その場合、それは主役級の扱いとなる訳だから描き方にも工夫が求められる。有り体に言えば、それはそこにみられる皺や襞や凹凸を充分に描き込む事である。一方、遠景の山は、逆に形よりも色が重要になる。何故なら遠くなるに従ってすべてのものは細部を失いその色だけが残るからである。このことは決して山だけに限ったことではない。※ここで117ページ。型によって描かれる絵を陳腐としながらも、「型」を用いて伝え教えることの意味の中に、ものの見方が含まれることの重要性に言及している部分が注目される。また、これからの風景画は、皆没骨になるだろうとした部分があるが、これは言い換えるなら「線」による表現が玉堂にとって古くさいものの一つであったということを表している様に思う。同時期、大正期に洋行した京都の画家が西洋美術に実際に触れ、古典的と思われている「線を用いた表現」に再び注目していると書き記している事との対比は興味深い。次回は「山と水の描法」から
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