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2/6//2010  レポート

日本画実習法 第七編 風景画 五、特殊景物の描法

■ 川合玉堂の著した「日本画實習法」はたして「日本画」の何が変わって、何が変わっていないのか。気になる部分を備忘録がてら感想など。その20
 
 

<雲の描法>
雨後の情景は特別である。空気が清澄になって遠景の色が鮮明になり、すべてが冴えたようになるからだ。(もし描こうとするなら)それらを写生しておく必要がある。
雪景色は古来から多く描かれて来た画題である。冬の景色といえば雪景だった。自然の複雑なところを、清浄な雪が覆って奇麗に見せてくれるから魅力的な画題ではあるが、雪景を描くのにただ白く描けばよいと思うのは間違いである。同じ白にもいろいろとあり、場所に応じた白のニュアンスの違いや、遠近の表現、陰影も加えなければならない。これらを描くためには、やや白い所は画面の生地を利用して表現し、もっとも白く感じる部分には胡粉を塗ってよいのだ。このことは絹本、紙本ともに同じである。
広い雪景の面白さは別として、小さな風景にも面白さはあるものだ。例えば庭の一隅、寒牡丹などもその一例だ。
白雪の中に紅色の点景がぽつんとあるなどまさしく日本画の画材である。

<月夜の描法>
月夜の景色も良いものだ。月夜の情景を描いた作品は、古来からたくさん存在しているが、日本画では西洋画のように自然のまま、見えたままの色で表現するということは決して無かった。だから日本画に描かれた月夜はともすると書(水墨画の意味か?)との区別もつかないほど不完全に描かれたものも存在する。

新しい日本画はこのようになってはならない。

だが、かといって西洋画のように自然のまま描き出す事は(日本画の絵の具を使うかぎり)困難なことだから、このことを戒めとして見た実感を大切にし、新しい表現方法を工夫して描くことを試みて欲しい。ただこうした問題について何らかの試みを自発的に行うなどといったことは、初心者にとって難しいことに違いない。

月夜の風景で日本画の画題として適しているのは、二日月、三日月などの見える夕方の景色である。それらはどんな場所で写生したとしてもきっとうまくいく絵になるに違いない。また、十五夜の夕月もよい。古来から好んで描かれた秋草に明るい月をあしらった武蔵野の夕方の景色等はその最たるものである。
月夜の写生においては、情緒的な感覚をいかにして画面に捕まえる事が出来るかが作業の中心となるのだ。

四季によって、また時間によって、見られる月の位置、形などを調べ、準備しておくことも重要だ。


<朝の描法>
朝の景色はまことに素晴らしいものだ。東の空に出る太陽の光、その時すべての物の命がよみがえるような力を感じるものだが、この刹那の感覚は、じっくり描き写すことが出来る様なしろものではない。まず、印象を大切に大きな構成を写生し、あとはこのとき得た印象を頼りにして描く。

夕靄(ゆうもや)のかかった夕景、雲の色、空の色は立派な絵になる。

ただし、これらを表現しようとした時、必要とする色、絵の具が(これまでの日本画の画材に)無く、また描法の洗練が無いためにこれまで描かれてこなかった。かといって、古人が描くことを試みなかったかといえばそうではない。未熟なだけである。極端な例ではあるが、濃い藍色で空をぼかし、地平線の上に紅のぼかしをかけて、夕映えを見せようとしたものなど少々俗悪なものもあるのだ。

<風の描法>
風の景色も面白いものである。一般的に強い線を引き、それらを重ねて表現したものが見られるが、描く方法はこれ意外にもたくさんあり、風の日に写生すれば見つけられるはずだ。

木の枝が風になびく様子。梢を離れて飛び散る木の葉。草の乱れ方。

これらは風を現す良い材料となる。

<雲の描法>
雲の変化は実に面白いが、従来の日本画ではあまり描かれてこなかった。古いものでは仏画のなかで、線を使いそれに彩色している程度である。加えて、純粋に雲の形を表現したような風景画はない。

自然を表現するのに、雲は重要な要素である。
こうした自然現象の様々を捉え、写生する勘所はこれで解説した。

描写のための具体的方法

1、風景を写生するには、まず、描くべき場所の選定が重要だ。
  描く場所によっては、実制作における構図に大きく影響を及ぼす。

2、(頭を動かさずに見渡せる)視覚における約60度の範囲を基本として描く。
  1、主眼となるものを中心にする(主役)
  2、主役からある程度の距離までのものを描く
  3、実際に描くおりには、主役を中心にしながら他とのバランスをとる
    具体的には、主役の中心からのずらし方が構図を考えることになる。

3、初心者のうちは奇抜な構図を控え基本に忠実をもって良しとする。



※ここまでで126ページ。
「線」による表現がなんども訴状に上がるところをみると、玉堂にとって「線」とはやはり「古い」ものの象徴だったように思う。一方、西洋画の表現に触れた事によって自然を観察して描くという事が「新しさ」として何度も繰り返されているのを見ると、解りやすいこの対比が日本画の革新へのエネルギーであったことが解る。
こうした中、玉堂の思う「日本画」が存在する場所は、「画趣」「情趣」といった言葉によって現される要素のように感じられる。しかし、こうした思いは洋画の画材、描法を用いようと存在するものでもある。

結局、違いを生み出しているのは、材料とその使い方の違いとなるのだが、フレスコ画やテンペラ画等とそれら比較してみればわかるように、材料の違いというのはその使われる国の風土、自然との関係を無視できないように思う。同時にその使い方の変化も、その国の自然風土の影響を受けざるおえず、あえて言うなら「花鳥画」といったある種の価値観の成立、「雨に感じる心」なども豊かな自然の存在があってこその存在と考えるなら、「日本画」とはこの国の自然、自然との関係の作り方の表現とも言えるのではないかと思うのだ。

次回は 六、風景画心得一般 から