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6/9//2010  レポート

教養講座「日本画って何?」個人のめざめ 6月6日

■ 倉敷市立美術館美術教養講座「日本画って何?」個人のめざめ(6月6日)が無事終了しました。たいへん大勢の方においでいただき感謝するばかりです。ありがとうございました。
以下は、今回講演のまとめと次回内容についてです。

教養講座ちらし
>> 教養講座ちらし (106.89KB)

「日本画って何?」個人のめざめ 

現在の美術一般、現代美術と呼ばれている存在と、「日本画」と呼んでいる存在の位置関係、状況を俯瞰し、見渡すことによって、特に現在の状況下では、それが説明しにくい存在であるということをまず確認しました。

次に、この「日本画」という言葉の来歴をひもとく事で、歴史的な意味の与え方の変化を追い、その流れの中で失ったもの、存在についてを考察しました。

1984年2月号 芸術新潮 特集「蘇れ大正デカダンス」という記事を手がかりに、倉敷市立美術館が所蔵する池田遙邨作品、彼の大正期作品に何故惹かれるのかを探る事によって、大正という時代が持っていた気分、それ以前の時代の絵画のどこか遠い世界に対して、現在の価値観と響き合う存在について考えました。
 

 
1984年芸術新潮 特集「蘇れ大正デカダンス」より池田遙邨作 「災禍の跡」大正13年作
>> 1984年芸術新潮 特集「蘇れ大正デカダンス」より池田遙邨作 「災禍の跡」大正13年作 (53.86KB)

サブタイトル、「個人のめざめ」とは、近代的個人の成立。大正という時代が、それ以前の時代と比べ、教育の普及とともに社会が価値観の多様性を受け止めはじめ、ごく普通の人々にもそういった自由な気分が花開いた時代だったという事が重要だったのです。

西洋的価値観を基本として暮らし、個人の価値観を表現する事が当たり前と考えられる今日の我々であるからこそ、加えて、社会がよりグローバル化する状況下、この国の文化をもう一度見直そうとしている現在だからこそ、「個人」が現在と同様に存在し、西洋に憧れ、その価値観を積極的に取り入れようとした大正時代は、自由な個人という共通項によってそれ以前の絵画よりもより近しい存在として我々に響いてくるのではないかと考察したのです。そしてそこには現在の我々が失ったもの、画塾などによって培われた描画方法や、古い価値観といったものが作者が意識せずとも描き込まれ、残され、失われた価値観を探す手がかりとしてあったのです。

<同じ事をすれば違いだけが見えてくる。>


洋画と日本画との違いを何処に見るのか、また見ようとするのか。
西洋と東洋、そして日本、この国に生まれ育った人間のアイデンティティーと考えられそうな要素について考察し、たとえ日本画という言葉が、今日説明難しい言葉であり、存在である事が明らかであるとしても、この「日本」という国の名前と、絵と言う意味の「画」が付いた言葉を、あえて大切にし、そう呼べる様な新たな意味を個人的にはあたえたいと思っているとお話ししました。また、そのことを実作者として具体的にする方法を考えた事についてや、昭和初期、第二次世界大戦前まで、日本画の基本として重要視されていた、「運筆・臨画・写生」についてを確認する取り組みについて、また失った存在についてをお話し、次回7月4日の講座では、そのようにして知り得て来たこの具体的な部分、材料、技術、画題等についてを今度は古い時代からその成り立ちも含めて明らかにしようとする話を予定しているとしてまとめとしました。

 
当日のスライドより大正
>> 当日のスライドより大正 (40.94KB)

次回もまた興味を持ってくだされば幸いです。


倉敷市立美術館美術教養講座 
「日本画って何?」伝統と現在
2010年7月4日(日曜日)
午前10:30〜12:00