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9/27//2010  材料技法

筆の達人

■ 日本画の価値観を探す中、出会った「運筆・臨模・写生」という三つの言葉。写生の必要性については、西洋絵画と呼ばれている存在の基本も同じとすれば、注目されるのは、残る「臨模」と「運筆」という言葉になります。
これまで何度かこの二つの言葉について今日的な理解をしたいと試みてきました。
 
 
墨を硯でする
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筆の構造と基底材の関係(5/8//2009  材料技法)
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/newcon/news/2009/050801/index.html

上記事で「記録する道具」として、筆と基底材(和紙、絹など)の関係について考えてみました。筆に求められる機能に加えて、使うとき、どのような事に配慮するべきかということもある程度類推できたのではないかと思います。

結果として残されるシルエット、形のことを別にすれば、少なくとも、安定な記録を作る筆法として、この配慮として行われた部分をいかに完璧に行うかこそが「筆の達人」の技術だったように思うのです。評価する人間は、描き手、もしくは書き手が基底材表面の凸凹をいかに筆先で捉え、その当たりをコントロールしながら描いているかを墨の乗り具合、筆の動いた軌跡をもとに「筆力」として見ていたのではないでしょうか。もちろん、実際に描いている現場にいれば一目瞭然です。

この技術・用法が、運筆の「基本」としての価値観を形成し、それがその後の技術革新によって、紙や絹が平滑な表面を持つ様になっても、「筆の使い方」自体に対する価値観として残っていたのではないかと考えているのです。

またある意味で基底材の凸凹は、筆の使いこなしが未熟な身にとって、筆と基底材の接触面を確かに感じる「手応え」としても働いていたと思われます。平滑になり過ぎたそれは、結果的により以上の筆力を要求されたと思われます。それらは料紙上でのかな書などに認められる様に思います。

ある程度筆を使い慣れ、線を描いたり、彩色出来る様になると、その作業中に筆先の当たり、コントロールを失う瞬間を手に感じられるようになります。そんなとき、書道での逆筆、筆の毛先にそれまでと異なるテンションを与えてコントロールを取り戻すことを覚えたりする訳ですが、こういった瞬間的対応が通常の筆遣いの中で頻繁に細かく行われ、習熟を積むに従ってより確かな筆遣いを手に入れる事になるのです。また、社会的にもそういった細やかな神経の存在を、描き手のコントロールによって出来上がった書や、絵から感じ取り、「筆力」としてとらえ、愛でる価値観が存在していたように思うのです。
 
描かれた結果としての形、残された速度表現など、それらの評価ももちろん存在しますが、この基本となる「用法」<>「運筆」が基本として重要だったと考えているのです。
 
そこには結果として残された絵の具、墨の発色に大きな影響が存在するのですが、戦後の材料の変化、描き方の変化は、この要素についてとらわれずに描くことをよりすすめ、現在の状況となっているように思われます。
 

 
筆をおろす
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さて、上記で書いた様な事が今日、一般的な価値観としてはたして成立するかどうか?。

「この作品には筆に力がありますね」
 
確かに描写する能力、いわゆる絵を描く能力として「筆力」という言葉を使う事がありますが、上記の様な部分的な意味ではなかなか難しい事の様に思います。いきおい、「わかる人にはわかる」的な話になって、結果、多くの方々にとってはどうでもよい存在、見えなくなってしまった価値観となったのではないかと思うのです。
 
一方、いろいろな存在がフラットに認められるいまだからこそ、この筆法、古典的な材料の違いによって生み出される色、質感の違いもまた表現の一つ。しかし、印刷物、こうしたネットメディア上で確認しずらい微妙な違いという事を残念に思う所です。
 

 
粗い絹の使い方として、寒天を引いてから描くテスト
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昨日ふと目にしたテレビ番組で、人間の触覚についてを取り上げていました。

磨いた金属表面を指先で感じ、微妙な凹凸の存在を捉える職人の手、指。そこには指紋の存在が大きく働いているという話でした。

指の皮膚下にあるいくつかの感覚器官、それが指紋の凸凹と存在する位置関係によってその振動を増幅し、感じ取っている。私が注目したのは、その測定方法です。

達人は、金属のプレートを指でなぞることによって微妙な振動がその金属板に現れる。その振動を捉える測定器!。「筆の達人」も、この振動の計測手法によって何かがわかるのではないか?そんなことを思ってわくわくしたのです。

「筆は置く様に使う」柔らかい毛の先端をゆっくりと基底材に押し付ける様に用いる事で接触する毛先一本一本の震えを感じ取る力。繊細な毛の反発、もしくは基底材表面の凸凹からくる振動の感知。

毛筆に誰もが触れる、使うことが当たり前だった頃、この国の多くの国民が持っていたそういった感覚が、ものを小さく作り上げたり、質感に対する繊細なこだわりを見せたりする能力として身体的競争力を生んでいたのではないかと今思うのです。

ブログ「吉備高原の季節」からだの文化 2010 9 9
http://kibikougen.blogspot.com/2010/09/blog-post_09.html

「臨模」は、大きな意味で「先人の形」を知る事と捉えられる様に思います。人間デジタイザ、コピー機のように対象を捉え、再現する訓練の中に何を見つけるか。その習熟によって、また何を読み取ったかによって結果も変わります。この学びの分析についてはまた別の機会に。

なお、墨にしても絵の具にしても毛筆を使って塗ったり、描いたり、線を引く場合、使用する「水」の存在を無視できません。同時に珍重された唐墨、松煙墨の秘密と、日本画絵の具の粒子の関係、また発色よく使う技術。ここに「運筆」、筆を使う技術が関係している事は明らかです。このあたりもまた機会をあらためて書きたいと思っています。