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10/5//2010  材料技法

墨の定着と着彩

■ 記録する材料、道具として開発されてきた筆や墨、紙や絹といった基底材。それぞれその目的に応じて技術革新され、また用法といったものが確立されてきたであろうことはメディアとして当前のことです。
しかし時代が進み、その目的とした事、用途が別の素材、テクノロジの革新によってもたらされた現在、その工夫の意味も見えにくくなったように思います。
今一度、このあたりを確認してみたいと思います。
 
早く筆を動かした場合
>> 早く筆を動かした場合 (7.84KB)

洞窟の壁に土や石などをこすりつけ描いた時代、そして燃えた火の後、残った炭を何かにこすりつけて黒い痕跡を発見した時代。
何時しか、木簡、竹簡といった硬い基底材に漆等で描く様になり、そのうち煤を膠で固め墨を作り、筆で書くようになりました。もちろん、それまでに石に刻むとか、粘土版に形を残すなんて方法もありました。

硬い凸凹の上を硬い素材が動けば、当然、触れる箇所は少なくなります。
それは筆と墨、基底材としての紙、絹だって同じです。粘り気の多い墨を使っていれば尚更の事、筆を早く動かせば、凸凹の凸の部分にしか墨が付かない事がわかります。
表面だけに付いた墨、それもわずかな量では長い年月を耐えぬくには少々心もとなく、摩耗して消えてしまう可能性もあります。
 

 
基底材表面の凹凸に沿うように筆を動かす
>> 基底材表面の凹凸に沿うように筆を動かす (9.46KB)

筆をよりゆっくりと動かして、基底材表面をなぞる様にすれば、凹んだ部分にも墨が付く様になります。

左画像で見る限り、凸凹が異常に大きく感じるかもわかりませんね。実際、こんな凸凹の上に書く事は少ないでしょう。
参考画像の筆を、実際の筆の毛一本と想像してみてください。基底材の表面にある凸凹を筆を構成している毛の先それぞれで捉えるように筆を動かす事が大切なのです。

先日、紹介したように、「運筆」の意味には、基底材の凸凹を筆の毛先で確実にとらえるということもあると考えているのです。

自動車レースでタイヤが接地面をきちんと捉えるように運転することは勝つために重要な要素のはずです。スピードを出し過ぎれば、車はコントロールを失い滑り出したり、またある場合はコースから飛び出してしまうかもわかりません。操縦する車の挙動に神経を配り、意図通りのコース取りが出来るよう変化する路面を感じてコントロールするのです。必然的にそこにはぎりぎりのバランス、せめぎあい、速度からくる緊張感の痕跡が残るのです。

遥か上空からコントロールされた車の軌跡を見るがごとく、筆によって残された墨の線、軌跡をみてください。

軌跡の曲がり具合、墨付きも重要な情報なのです。
これが「筆の達人」で伝えたかったことの意味でもあります。
 

 
より確実な痕跡の残し方
>> より確実な痕跡の残し方 (9.33KB)

これまで見て来た事を進めてより安定な墨の定着を考えると、この基底材の凸凹を埋める様に墨を残せばよりよい事がわかります。

筆を細かく上下動させる事によって、毛先を凹部分に滑り込ませ、同時にカーボンの粒子を残して行くのです。いわゆる墨乗りに関わるのですが、「ゆっくりと筆を動かす」とか、「筆は置く様に使う」なんて伝えられて来たことの基本的な意味はこんな所にあるように思います。

※運筆の速度について
残される墨の定着だけが問題なら、とにかくゆっくりと筆を動かして確実な線を残すことは、一つの重要な用法、価値観に違いありません。
一方、筆をゆっくりと動かすということが基本として当然と考えられれば、そうではないあり方、「筆による速度の表現」という新たな価値観も生まれます。なんでもありの現在ならいざしらず、この時点でのそれは、「筆が接地面をいかに確実に捉えてコントロールしているかを前提として」どのように速度表現をするかが試みられたのです。書き手も観賞する側も同じく筆を日常的に使う人間です、書かれた文字の意味、内容を越えて、残された墨の痕跡には高度なコミュニケーションのための手がかりが残されたのです。
 
例えば恋文、流麗に書かれた文字の形、つらなりが、書き手の確実に基底材表面を捉える繊細な神経、コントロール、今日的な意味合いで言えば非現実、時間表現によって実現されたことを知るのです。
 

 
凹を埋める墨の粒子について
>> 凹を埋める墨の粒子について (5.14KB)

一口に凹の部分を墨で埋めるといっても、粘りのある墨を使うと難しいことは経験上理解できると思います。

紙の繊維は不規則に絡み合い、それらによって出来ている不定形の凹を埋めるのによいのはどんな形にも変わりうる「水」の力を借りる事。
カーボンの粒子は、水の力をかりて凹の隙間部分に自由自在に入るのです。また同時に沈降速度(粒子径の大きな物から、また重いものから沈む)も大きな意味を持っているでしょう。
 
一方、このとき墨について求められる事は、乾いた時にやせすぎない事、穴を埋める時に都合の良い粒子の大きさ、疎密のバランスのよい構成比を持った墨が求められたと思うのです。

この墨を構成するカーボンの粒子の大きさの種類、またその構成比、もちろん定着材としての膠、コロイド、サイズ効果を生む材料、それぞれが定着、書き味に関わっている事は言う間でもありません。

特に松煙墨では、どのような大きさの粒子がどのような比率でブレンドされているかが墨の善し悪し、使い勝手、価値観の一部となっていると思われます。
 

筆、墨、基底材の関係、おそらく価値観として存在したであろうことを材料や用法を手がかりにみてきました。絵画的な表現よりも、どちらかというと文字を書く事を念頭においての考察です。同じ筆、墨を使う絵画表現、この国の美意識の中にはかって同じ様にあっただろうと思われる価値観なのです。
 

 
絵の具 粒子の大きさと着彩順
>> 絵の具 粒子の大きさと着彩順 (15.39KB)

墨の粒子に関連して。

日本画の絵の具を特徴づけている要素に、粒子の大きさの違いがあります。またその違いを効果的に生かしての彩色方法があるのです。

宝石の様な希少な石から作られる群青や、緑青、粒子の大きな鮮やかな絵の具は高価な存在でもあり、その使い方もかって下塗りには何を塗り、仕上げ方はどのようにすると言った厳格な決め事がありました。それ故にそのことが古くささ、壊すべき存在としての訴状に上げられ、必要以上に使い方が壊されて来たのです。

かって使う材料に日本画ならでは特徴を見いだしていた方々がいらっしゃいましたが、それはとりもなおさず長い年月をかけて作り上げられてきた「用法」と一体の存在だったように思うのです。
 

 
絵の具の重なりに付いて
>> 絵の具の重なりに付いて (11.31KB)

上記で解説した絵の具の重なりを正面から見た状態のイメージ図


多様な粒子の大きさをいかに使うかは、実現する色彩、質感に大きな影響を及ぼします。

日本画と呼びたい価値観の重要な要素です。