森山知己ロゴ
7/8//2015  材料技法

絵描きの側から見た美術史

■ 「日本画」について、具体的な説明・理解をとこれまで試みてきました。実際に絵を描く側であるからこそ、単に材料の違いのみを手がかりとしたり、結果としての描く対象との関係の作り方、捉え方のみを問うのではなく、絵を描く一連の作業を通して、この国なりの特質が認められるような何かしらの価値観に至ることが出来たらと求めてきたように思うのです。
 
bin070802.jpg

 私が日本画としてまず(日本画という言葉と出会った頃)惹かれた絵画、魅力を感じたのは、速水御舟や村上華岳、土田麦僊、福田平八郎といった方々の作品でした。ちょうど画学生であった頃、展覧会が頻繁に開催されていたということももしかしたら理由になるのかもわかりません。(室町・江戸、濃彩に水墨、これ以外にも惹かれる絵画はたくさんありましたが、すでに私自身が知っていた西洋的な表現・描写に近いということ、実際に描くことも加味された興味だったと思われます)
 
 実際に試して描く作業の中で、描いている対象物、モチーフ自体が問題となっているのではなく「絵肌」といったものが大きく興味の対象となっていることに気づきました。当初、絵が「堅い・柔らかい」といった言葉で捉えていた要素の中に、材料の使い方、素材の選択が関わることがわかってきたのです。

 私が惹かれる絵画、確かに時代も様式も様々ではあるのですが、大正時代に活躍した方々が多いということに気づきました。西欧化する生活・文化を受け止めることは同じながら、現在に生きる私達とは違う特別な何かしらを、絵から感じさせる、共通な何かを作画に持っている作家群です。なかでも国画創作協会の作家たちに魅力を感じました。

 大正7年、絵画専門学校第一期卒業生による国画創作協会の設立。美術史的に捉えればそれ以上でも以下でもない話なのですが、これより少し前、画塾が武士の子息を対象とした存在であり、それもなおかつ学ぶためには絵師の師弟といったことが問われた時代が有ったこと。そして明治、大正、画学校が開設されて、初めての卒業生による団体という意味を思うのです。

 絵師、絵を描くことが明確に「仕事」であった時代に、絵を描く技術が特別な存在であったことは明らかでしょう。またその学び方も。この画塾によって継承されたことこそ、ある意味でわかりやすい「新しい日本画が壊そうとした相手・対象」であったことを思うのです。

 結果的に大正時代の作家たちに出来て私に出来ないこと、私が持っていない能力として材料・絵の具を使う決まり事としての技術を求めることとなりました。そのおりに手がかりとなったのは、ほんの僅かな経験、学生時代に行った模写での技術、材料の使い方だったのです(もちろんこの模写にも二種類あり、「絵描きの模写」ということが問われるわけですが、このあたりは別の機会に※)。<※またこのあたり、直線上の出来事、作業としてまとめていますが、川合玉堂の日本画実習法に記述されていること他、ここのところ行っている美術館でのワークショップ実施において、これまでの作業、試みを相対化させることが可能になったからと感じています。様々な機会をいただいていること、助けていただいていることに感謝です。>

 「新しい日本画」を描くために、この壊すべき対象となった基本的な技術、継承されてきた素材、道具、材料の使い方、関係の作り方をまとめようとしたのが、《倉敷市立美術館日本画講座(2009/04〜2010/03)「無い」から始める日本画講座》で作成したマニュアルでした。
 

 
bin070801.jpg

 副次的にでは有りますが、この一連の流れ、材料に関する考え方、使い方をまとめられたことは、それまで描かれてきた絵画を技法的に読み解く「見方」を作ることに繋がりました。「(古典的な)日本画を描く作業の流れを一つの形、プロセス」と捉えることで、ある種の普遍性に繋がるヒントを得たのです。

  ※ 小野竹喬「波切村」・入江波光「葡萄に栗鼠」・児玉希望「白鷺栄華」

 このようにして得られた一連の作業の流れを基本として、それぞれの段階を要素として捉えることで、<記録すること>線を引くこと>良い線とは?>といった問いが、墨という材料の組成、作り方に及ぶ興味となり、カーボンの大きさ、膠の質、作り方といった興味となったのです。もちろん同時に、筆という道具がどのような意図のもとに開発され、機能を深めてきたのか、また「運筆」の意味を考えることに繋がりました。また開催したワークショップ、講演会などでの新しい出会い、知遇によって、胡粉を絵の具として溶く一連の作業が、まさに「白い墨」とでも呼びたい機能を求めた作業であることなどを実感することになったのです。

 ※「この国の価値観再発見ワークショップ」 菊池契月展「線で描く・墨で描く」ワークショップ 「膠造りワークショップ」 「魅惑の美 Crystal ー最先端科学が拓く新しい結晶の魅力」ーetc

 
bin070803.jpg

 「運筆」関する理解も、墨の持つ機能、筆の動かし方といった手がかりから、安定な記録、そしてその実現する過程を経ることで知る筆のコントロールの妙味が、玉堂の言う「運筆とは、筆をつけること」というシンプルな表現の持つ言葉の深さを感じさせてくれました。

 このことは、水墨表現について、私なりの理解を持つことにも大きな意味を持ったように思います。

 筆という道具、墨という素材、紙、絹という支持体を感じ、使いこなす事が持つ意味。コンテンツとは何か、道具にもとめるものとは?ということをあらためて考える機会にもなりました。この国なりの道具に対する考え方も認められるように思います。

 
bin070804.jpg

 そして今思っているのは、日本画とは、自然のシミュレーションではないか?ということ。古く哲学の「自然の理解」から始まり、自然の模倣といった定義付けに倣うならば、ある意味で創作を通じて人間が「自然」を生み出そうとしている行為ではないかと思うのです。

 「たらしこみ」は、まさしく自然界にある物理的な現象を、実際の風景風物を価値として認めるのと同じように認め、描法として成立させています。絵の具が<綺麗に発色する>この「綺麗」は、どのようなところから導き出されたのか?

 こんなところがちょっとおもしろいと思っている今日このごろです。