夢中という技法(展覧会案内+)
岡山県立博物館での「幕末・明治の超絶技巧」展、早く見たいな〜と思いつつも、旭川を渡り、後楽園までのあとちょっと(それなりに岡山県立美術館や丸善あたりまでは出かけています)の距離が遠く感じられて、結局(会期半ばの)今日になってしまいました。 私自身が関わる日本画について考える意味でも、この幕末・明治あたりが実は大きなポイントとかねてより思っていた事もあり、待望の展覧会だったのです。展覧会自体は昨年秋の東京の泉屋博古館分館をかわきりに、今年に入って静岡の佐野美術館、大阪歴史博物館と巡回し、ここ岡山が最後の開催だそうです。
はじまりは別冊太陽1990年夏、「明治の装飾工芸」という本との出会いでした。古い物も好きでそれなりに機会があれば見るのですが、この本で紹介されていたスケッチや図案の凄い事に感心したり、幕末、お客である武士を失った職人達がその技術をもとに新たな市場、仕事と結びついて行く姿が興味深かったのです。その後、若冲の動植綵絵の全公開に惹かれて三の丸尚蔵館に通ったおりに見た併設の明治の工芸の凄かった事。壷の絵付けの超絶さ、その図案の凄い事。ヘタな絵描きなどまったく相手にもしてもらえないと思ったのです。ちなみに、細密な絵付けを施された焼き物を見直したのもこの頃です。ヘタウマなんて言葉が流行った事がありましたが、多くはヘタヘタ。ウマイという価値観が当たり前にあったからこそヘタを認められたのです。それが消費の記号になった瞬間、その価値観も消費されてしまったように思います。
さて、内容は、実際に見ていただくのが一番!。今時の美術作品、アートといったものになんとなく「?」と感じているならば、問答無用の価値観、それもとびきりの姿を一度確認してみるのもいいでしょう。何を信じるかは人それぞれですが、人間の手作業によってこれだけの事が出来るという事実、その可能性だけはわかると思います。私自身はそのひたむきな作業はもちろんの事、自然を見つめる目に感心しました。植物や昆虫、鳥、は虫類、動物。それぞれに注ぐ視線、何を見つけるか、それをどのように表現するか。当たり前のことを当たり前にする視線です。
都会に暮らした都会的なデザインの作風も好きですが、、、何気ない植物の蔓の様子や、それに着く葉の姿、花を「生」の姿にとどめた造形もまたいいなーと思うのです。子供のように夢中で見つめる目、制作作業に夢中で取り組む姿。確かに超絶技巧、刀のキレ、たがねの技、ツチの動き。そしてなによりも極限を目指す夢中になる力、誰にでも出来る「技法」では無いとひたすら思うのです。
さて、大満足の「幕末・明治の超絶技巧」展でした。あっさり見て終わるかな?と思って入ったものの結構長居してしまいました。図録表紙になっている正阿弥勝義の群鶏図香炉、蓋の菊!まったく凄い集中力です。昆虫、鳥、魚、海老、彫刻とか工芸とか美術とか、呼び方はどうでもいい?です。素直にスゲェー!に出会える展覧会です。もちろん展覧会カタログも購入、会場で気になったスプーンが載っていなかったことが残念でした。 ※上画像はいつも利用する後楽園の駐車場、そう!料金所工事中です。これまで無料でしたが、7月1日より有料化されるとか、、、、。
歩いて岡山県立美術館の「絵人百九面相 横尾忠則展」とも思ったのですが、日差しに負けて?車で移動。地下駐車場がいつもに比べ凄く暗く感じたのは、節電で点灯されている蛍光灯の数が少なかったのか、それとも今日の日差しのせいだったのでしょうか?さて、横尾忠則さんといえば、サンタナのアルバムジャケットとか三島由紀夫や高倉健さんをモチーフにしたグラフィックデザインがまず思い出される私はそのような?年齢です。その後、1980年代のニューペインティング時代?、ペインティングによる発表を行い、そんな中、リサライオンの絵なんかも描いていたな〜なんて記憶、、、、。今回の展覧会もなんとなく是非とも見なければ!といった感覚は正直弱く、<どうしようかな〜?>と思っていたおり、知人の女性から「よかったよ〜!」という言葉をもらって、この機会にと県立美術館を訪問したのです。この私の「どうしようかな〜?」には、そのおりおり、時代の流行っぽいのが並ぶんだろうな〜、昔々のイワユルグラフィックデザインをやっていた時の方が凄くカッコよかったのに、、、、「画家宣言」なんてしなければ(ホントにしたのかどうかは知りませんが、、)もっとカッコ良かったのに、、、また、展覧会のサブタイトルに「絵人百九面相」とあってそれもなんとなくわざとらしく感じてしまっていたのです。まあ、勝手な思い込み、私のひねくれた性根と言ってしまえばそれまでで、、ポンと一言「よかったよ!」ともらった感想が全て、見てみたいと出かけたのです。展示を見て私は、正直多彩な顔とは感じませんでした。ただどの作品もどのやり方も夢中で行っている事だけはしっかりと伝わって来た様に思います。作家になるには、ある種のスタイル、オリジナルな様式を確立する事がもっとも大切であるというのは、ある意味で何でもありに見える今の時代でも正論でしょう。しかしわき上がる様々な興味をそのおりおりに活き活きと夢中に生きた結果がこの展覧会であるなら、それもありだと思うのです。そのようにして生きて行く事が難しい事は、スタイルを作れなかった、消えて行った作家予備軍の多さを見ても明らかです。だからこそ「やり方」が認められる環境を作るということも今求められるのかもわかりません。百九という顔が大切なのではなく、それだけの数に「夢中」で一生懸命向かうその姿が、描かれたそれぞれから伝わってくるから「よかったよ〜!!!!」なんだと思ったわけです。フロントガラス越しの暑い日差しを浴びながらの帰り道、かたや職人と呼ばれ生きる為の仕事から派生した世界「幕末・明治の超絶技巧」、それらから伝わるわくわくドキドキ、もっともっとと夢中に制作に向かう姿、一方若輩の私などが何かしら言うのはおこがましい限りですが、横尾忠則サンの作品からも異なった形ながらひしひしと伝わって来る同じ思いの存在。「どのように生きるか?」「人生とは?」なんて、大上段に構えた言葉に対して<何に対してであれ(その対象が勉強でも、仕事でも、奥さんにでも、子供にでも、趣味にでも、その他もろもろにでも)夢中になってそのおりおりを生きていけたらいいな〜>と元気づけられた気がしたのです。やれといって出来るものではない、やろうとして出来るものでもない「夢中という技法」なかなか難しいですぞ!!。たとえ出来たとしても、なにかと両立、いっしょに満足させては至難の業。例えばお金!生きて行くのが大変な現実が目の前に広がります(という人もいるということで、、、)、、、。
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