水の時間
<もともと「日本画」なんて無い>、こんな言葉も聞きます。とどのつまり、海を越えて伝わった外来文化を根として何もかもが出来上がった、この国にオリジナルのものなど無いのだという理屈です。文明の発祥まで問えばそういう言い方も出来るのかもわかりません。しかし、現在のテクノロジーがそうである様に、発祥の場所とは別の形で工夫を重ね新たな価値観を生み出す事もあるはずなのです。そのおり、育まれる自然環境や社会でのコミュニケーションのあり方も大きな影響を及ぼすに違いありません。この国の文化がそうである様に。
例えば使われる道具一つをとってみても、どのような来歴、価値観によって生まれ、作られ、工夫されて来たか、そしてどのように使われて来たかの歴史が、それぞれの時代、社会での明確な価値観の表現、結果であることを思うのです。それらを今一度具体的に検証する事は、ともすると具体性を欠いた議論に陥りがちな「伝統」といった言葉に明確な形、姿、理解を与える事につながるのではないかと思うのです。
和紙、絹といった材料素材ももちろんの事、道具を作る現場が存続の危機的な状況であると聞きます。三千本膠の件などまさしくの出来事でした。また刷毛、筆などの制作の現場、墨の製造などでも同じくの話だそうです。多種多様な材料、道具が生まれて来た背景には、それと同じ程の価値観の広がりがある事は疑い様も無い事でしょう。また、それらが使われ続けて来た事にも理由があるはずです。道具や素材、材料を作る事が難しくなる、継承が難しくなるという理由に経済的な問題が存在するのは疑い様が無いことでしょう。もちろん継承者の確保も難しい事かも解りません。また筆を作る為の材料としての毛などで環境問題、動物保護におけるワシントン条約などの制限も加わる事もあると思います。しかし、何故そうでなければならないのか?といった要求への必然が共有出来ていれば、代替えになる何かを見つけたり、新たな素材開発、別の作り方もあり得るはずなのです。素材、材料、道具、そして表具、もちろん絵画という最終製品?をも含めて、それぞれを巡る消費サイクルに何らかの問題が起きているのだとしたら、それぞれの現場でその有用性、大切さを理解出来ていないからという事になりそうです。現状が口では自由と言いながら、実は多様性が確保出来ていないのかもわからないと思うのです。
際限のない自由への渇望も人間らしい事、芸術を構成する一つの要素には違い無いのでしょうが、エコロジー、環境との共生、普遍的なルールの発見、その形の提案という事も今日のアートとして大切な事の様に思います。この国には自然との高度な関係の作り方、洗練されたやり方がすでにあったように思うのです。筆、刷毛、この国の道具の技術開発、洗練、使いこなしは、全てにおいていかに水を使いこなすかということに集約されるのではないかと、そんなことを思っています。水の持つ性質、特性を生かした表現に着目する事で、様々な表面上の表現を越えて、この国に暮らしてきた多くの人々が延々と守ろうとしてきた大切な何かを発見出来るのではないか。平安時代も、江戸時代も、そして現代も水を使う事、「水の時間」は、同じはずなのです。この恵まれた自然環境、水の恵みが無ければ出来なかった文化のあり方、育ち方、自然との高度な関係の作り方。もちろん画面の大きさ、表現の形態も大きな要素になるはずです。大切にしたい何かを解りやすい理解の形に変え、提案する事も「日本画」という言葉に形を与える私なりのやり方のように思うのです。
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「表現者はそんな言葉などどうでも良く、自由に描けばよいのだ。」ひとつの真実でしょう。溢れ出る個性を前面にといった作家像が好まれる所以ともなっているように思われます。一方で日本画について語られる際、「伝統」という言葉が重要な意味をもっていたり、また時代を語る上で「革新」ということがことさら強調されたりもします。これらの言葉は「比較する」ということを意識させます。作家個人だけでは完結しない要素、何かの存在を感じるのです。
これまでこの日本画という言葉を手がかりに考えて来た事とこれからについて