緻密な作業
先に展覧会案内で紹介した岡山県立美術館で開かれている「美作の美術展」、「江戸一目図屏風」他、緻密に描かれたそれぞれの出品作。鍬形寫ヨがお抱え絵師であったということとも無縁ではないと思われます。細密に描くことこそがある意味で主君に使える絵師としての仕事をわかりやすく表現する一つのやり方でもあったのです。絵描きの技能として細密に描けるということは、明確な自己アピール術であったに違いありません。 また、同時に鳥俯瞰図の様式、見たままではなく<理解>(当時、飛行機のない時代、空からの視線は絵師の頭の中でCGのように構築されたものだったのです)の表現でした。 加えて、平面としての地図を念頭に、実際に現地を歩いてリアリティーのある要素を集めて来ているのではないかと考えられます。ポイントとなるそれぞれの場所の代表的な存在、樹木、建物など、だからこそ自信をもって緻密に描き込むことも出来るのではないかと考えられるのです。 細かいだけではなく、生き生きとした描写には、単に頭のなかだけの再構成ではない絵描き自身の力を感じるのです。
時代はずっと遡りますが、MIHO MUSEUMでの「古代ガラス」の世界。小さなガラスの容器を作ることが出来るようになったのは、3500年前だそうです。 幸運にも古代ガラスの制作手法を再現されている松島巌さんとご一緒出来たこともあって、逐一説明を受けながらの贅沢な観覧となりました。 制作材料について、科学的な知識も必要です。また精緻な作業には熟練した技も必要になります。聞けば当時の人の手だけによる制作では、数年をかけて行われたと思われるような作業・モノもあるのだとか。特別な作業を行えるということが工人としての証、存在理由ともなったのでしょう。割れやすいガラスの特性を考えると気が遠くなるような作業です。 それでも厳しい社会を生き続けるためには、技術を出し惜しみするような余裕などあろうはずも無かったと思われます・・・・ 時代背景こそ違え、絵を描いたり、何かしらモノを作ったり、そのことを生業としていこうとするのに、技術の出し惜しみが出来るというのはある種の余裕ではないか?。職人、工人、もしかしたらアーティストも、細かい精緻な作業が出来るというのを見せる事は、わかりやすい自己アピール方法、プロらしい違いを明らかにするもっとも簡単な方法なのではないか・・・・。 そんなことをふと思います。 専門家として何かしらに携わっていることを明らかに見せる手法の一つとして、普通の人がなかなか出来ない技法を使うことはもちろんですが、ひたすら時間のかかる緻密な作業を売りにする方法もありなのです。 価値が定義しにくくわかりにくくなった ”なんでもあり”の今のような時代だからこその原点回帰 ただし、時代が現代に近づくにしたがって、昔の方々との直接的な時間勝負をしないように?競争の仕方を工夫してきたのもまたひとつの方法でした。論理によってけむにまく?のもまたひとつ。 社会の豊かさと、食べていくこと。アートと呼ばれる存在と工芸、もしくはクラフト・・・・アーティストと職人、日本的なあり方の理解を難しくしていることの一つにこのあたりが凄く関係しているように思います。 この他にもいろいろなやり方があるからこそ楽しい。ただし、そのことを知ってもらう、前提条件の共有も大変なことなのです・・・・。
※ この他 古代ガラス展の図録 展示作品の美しい画像はもちろんですが、ガラスの始まり、材料解説から、それをどのように発展させてきたか。 青という色、ラピスラズリへの憧れ。西洋の錬金術にこの青への憧れもあったと聞いたことがありますが、色ガラスへの挑戦やさまざまな装飾技法の開発、その背景、技術などがページを十分に確保し、画像つき、図付きで詳しく紹介されています。復元作業から、検出された成分の紹介まで、充実した内容の図録となっています。
後楽園で行われた第45回表具美術展 表具の技術 縁あって、拝見しました。表具の技術も表現とともにあると考えると、まだまだいろんなことが考えられそうに思う今日このごろです。
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