自然を創りだす
それは、描く行為を通して・・・ 人間自らの手によって「自然そのもの」を生み出そうとする試みではないかということ。 そんなことは、古の絵画のみならず、この国の芸術表現と呼ばれる存在においては当たり前の事と一笑にふされることは重々承知の上で、あえて模倣としてではなく、新たに生み出そうとする行為と思うに至った出会いについて紹介してみたい。
打ち寄せる波砂浜を粒子のある絵の具、筆により塗られた、置かれた姿とし、この寄せる波を水を付けた筆と見立ててみる。筆の痕跡は、さしずめ人の手により作られた砂山、人の足跡波はそれらを飲み込む
波が引くと現れる なめらかな砂浜 人の痕跡を消す自然の姿一本の筆に絵の具、もしくは墨、そしてもう一本の筆には水をつけてぼかす特徴的な技法。隈取、もしくは片暈し。水の性質を知り行うからこそ可能になる自然。技法の実例であえて書かれる「二本の筆」※河鍋暁斎 ジョサイア・コンドル著/山口静一訳 p108
たらしこみ貯められたたっぷりの水は、湖、池、水たまりに流れ込んだ水そして加わるのは、小石、砂、土、より微細なモノ・・・・重いモノ静かに湖底に沈むそれら沈殿
何を描くか、またどのように描くか・・・・も、もちろん大切なことには違いないけれど、長い時間、歴史を経て見出したのは、その作業に、そして結果に「自然のありよう」を発見し、それを自ら生み出す世界。意図し、目的としてそれを行う世界生まれた結果の中に「美」を見つけ出す「琳派」とはそんな共感を繋ぐ名前ではないか。
運筆とは「筆をつけること」柔らかい筆先、竹の管を通じて感じ捉える、紙や絹の表面の凹凸。安定な記録を目指したゆっくり動かす筆の世界。そしてより繊細に、そしてクロックを早めて感じることで可能になる、あえて生み出す「筆の当たり」の世界。水墨の大胆な技、感触の世界。
絵具の発色も自然の有り様、いかに静かな沈殿を生み出すことが出来るか・・・絵の具がコロイド状に水の中で浮遊し、あるべき形、自然の理の姿で沈殿し生み出す絵肌。墨の色。膠の展色剤としての働きの重要性。絵の具に粒子の大小があり、比重の違いがあること、自然自体を生み出すために自然の要素をそのまま持ち込もうとしたのではないか、そのまま残したのではないか・・・漉く和紙もそして織られる絹にも、箔を薄くしたことも・・・・・道具の刷毛、筆のセンサーのような姿を愛で、それを使う者の感覚、自然を感じる力を研ぎ澄ます機能。
描くことも、見たままではなく、そのもの自体を感じ正しく理解し、新しく「自然の姿」を生み出そうとする。さながら古の生物をさも今も生きて実在するかのように再構築するCG制作の作業のように。そんな絵画、そんなことを大切と思った国、国民の絵画として「日本画」という言葉に意味を与えることができたら楽しい・・・そう思うのです。
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日本画とは何かについて、ひとつの提案をしてみたい。