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- ■ 3DCGアニメーションとの関わりについて
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3DCGアニメーションとの関わりについて
- ■ 黎明期
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- ■ 壁に秋が。
■ 当時作ったCGIによる記事更新システムが画像とテキストさえあれば今様?のブログシステムのようにブラウザだけで記事を簡単に登録公開出来るため、とりあえず「まあいいか」がそのままになったのでした。途中、プログラムのメンテをしたり、機能拡張したり、スタイルシートに対応させた新バージョンの制作に関わったり、折に触れいじる?ことはやってきたのですが、ほとんど人のため?自分のところはどうでもいいよ状態だったのです。見た目も古くさいし、どうせ手を入れるなら、あれもしたいこれもしたい・・・・・・・・でも時間がないし・・。そんなことを思っている間のまるまる5年でした。何も知らず、出会うことがみんな新しくてドキドキしてやれた数年間の楽しかった事。これは1990年頃から関わった3DCGアニメーション制作も同じでしたし、もちろんそれ以前のパソコンデビューもです。アッという間の世紀末の10年。黎明期と呼べる瞬間に立ち会える楽しさでした。はたして今、黎明期と言えばなにになるのでしょうか?もっともこんなことを考えているようではもともとだめなんでしょうけど・・・・。
- ■ 賛嘆 日本画家の素描
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笠岡市立竹喬美術館で 賛嘆 日本画家の素描 が開催されています。2020年5月16日(土)〜8月10日(日・祝)開館時間 9:30〜17:00 入館は16時30分まで 休館日:毎週月曜日(ただし、8月10日(月・祝)開館) いろいろと制限はあるにしろ、美術館を訪問することができるようになってきました。以前のようにはならないのかもしれませんが、また展覧会を見ることができるようになってとても嬉しいです。 いつもの笠岡市立竹喬美術館、華鴒大塚美術館コースを訪ねました。まずは竹喬美術館から。 「賛嘆 日本画家の素描」展、素描展と聞いて素描ばかり?はたして素描だけで展示を構成できるのか?と思いながら美術館を訪ねました。 ちゃんと本画もたくさん展示されていました。!! もちろん興味深い素描もありました。思い出そうとしてすぐに頭に浮かんだのは、林司馬の「青梅に小禽」繊細な雀の姿、頭部の表現!。土田麦僊の「白菊」榊原始更の「菊」・・・。写実という言葉をどのように定義するのか?。日本画家の素描は、単純に見たままではなく、理解の表現のように思うのです。ある意味で大変高度な3DCG制作のようなそれです。物体としてのそれ以上のなにかにどのようにしたら近づけるのか、言葉に、プログラムに出来ない何かがあるからこそ筆を、鉛筆を走らせているように思うのです。 大村廣陽の「正鶏」(本画)屏風も印象深く記憶に残りました。 もちろん竹喬作品も展示されています。 素描こそ画家の眼差しそのものにほかなりません。 のんびり、見に行ってはいかがでしょう。
- ■ 平家物語を描く-近代によみがえった古典
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井原市立田中美術館で「平家物語を描く-近代によみがえった古典」が行われています。2015年4月27日(月)〜5月31日(日)月曜日休館 開館は、9:00〜17:00 入館は閉館30分前まで <実際には見ることが出来ないもの・事を、あたかも見たかのように描き出す力>昔、絵描きに求められた技能の中で、とても重要な「力」だったそうです。それが可能な絵描きこそが優れた絵描きであり、格上の絵描きだったのだとか。これは西洋でも、そして東洋でも同じだったとかつて聞いたり、読んだりしたことを思い出しました。 「ジュラシックパーク」という映画があります。マイケル・クライトンにより書かれた小説が1993年にスティーヴン・スピルバーグ監督により映画化されました。当時、技術革新によりどんどん処理能力を増していたコンピュータ、その成果もあって実現可能なこと・表現力を増していた3DCG技術。パソコン、コンピュータを使えば、すでに死滅したと思われる恐竜があたかも現実に存在するかのような姿として実現できる、それも生きている・・動いている姿で。SF好き、映像好きにとって強烈なイメージ体験となったことは言うまでもありません。パソコンやCG表現の技術革新によって実現可能だということがわかっていたとしても、それが実際に実現され、目にすることができるようになった衝撃は当時とても大きかったのです。 何故、今回の展覧会に際してこんな話を書いたのかといえば、CG、映画以前に、過ぎ去った過去の姿をビジュアル化する手法としての絵画「歴史画」を描くとは、まさしく誰も実際には見ることの出来ないこの恐竜とはどんな姿だったのかを、あたかも生きているかのように眼前に創りあげる作業の様に思うからです。 鎧、装束、どのような衣装を当時来ていたのか、それぞれの登場人物の性格を現すような容姿、立ち居振る舞いとは・・・・場面に応じて登場する要素、出来事となるものはどんな姿、形、様子だったのか。 時代考証などという言葉もありますが、それぞれその筋の専門家に助けてもらうにしろ、最終的な目に触れる姿、映像・画像とするのに必要な細部をどのように実現するのか。 今回のサブタイトル「近代によみがえった古典」に現されているのは、まさしく描いた画家それぞれが、自分たちの生きている時代においてのビジュアルなリアリティーを何に求めたのか?、また絵画価値をどのような所に置いて描いたのか?といった要素が企画意図に含まれているように思うのです。 日本画の描き方・・・日本画とはどんな存在なのか。私自身の問い・探す過程で出会ってきた事それぞれ。 かつて写真が生まれたおり、絵画のもつ機能のある部分が写真に取って代わられるとともに、写真が持っていたなんらかのリアリティーも絵画側が意識して取り込むようになったと思われます。川合玉堂の6.「小松内府図」人物の顔の描き方、奥行きを暗示する配置など、古い時代を感じさせる描写の中に描く画家の生きている時代を感じるのです。一方で、岩田正己の1.「忠盛」や、守屋多々志の11.「生田敦盛」の表現には、写真表現を通り抜けて後、絵画ならではの価値観創造といった趣を感じます。それまで「線」に求められた価値観、基本は抑えつつも使われる「線」がいかにもモダンなそれに変わっているのです。前田青邨の一連の作品には、日本画絵の具そのものの魅力が感じられる使い方を思います。群青や、朱、その粒子の効果的な用い方、「色」に加えられた絵の具自体のもつ「質感」の面白さの再確認、また効果的なたらし込み表現による絵画効果をあきらかに狙っているなど、興味深い見どころとなっています。 玉村方久斗の40.「火牛」は、貼られた箔の上にまさしく「たらし込み」を用いた彩色、俵屋宗達の牛などが連想されるところです。(キャプションに金地とありましたが、銀地ではないでしょうか・・・・) 特別出品の「源平合戦図屏風」金の箔押された雲、盛り上げで作られたその模様、どこかで最近見たような意匠です・・・・つい先日、林原美術館で見たレプリカの雲との類似性を思いました。 小堀鞆音の55.「薩摩守平忠度桜下詠歌之図」、画面左側の黄色の山吹の不自然な変色、背景の水の流れ表現、銀の存在、銀の硫化による変色のように思います。金色っぽい茶色の部分、もしかしたら描き上げられた当時は銀色だったかも分かりません。 日本画の画材(素材や道具)、伝統と呼んで繋いできた価値観。大正から昭和初期は、ある意味で黄金期のように思うのです。長い年月をかけて成熟、洗練されてきたそれらが、新しい(西洋の)価値観と出会い、表現上の多様性を開花させた時期に思えるのです。はたして「自由」をどのように捉えるか?土台となる何かを忘れてしまっては残念です。個人一人では到底実現不可能な何かの存在、「日本画の伝統」をどのように捉えるか?もしくは捉え直すことができるのか?にかかっていると思うのです。 3DCG、アニメーション制作に関係する表現しようとする対象との向き合い方、理解の仕方(設計図・パーツアセンブルなど・スケッチの仕方などにその類似性を見ることが出来ます)、そしてレンダリング、シェーディングといった処理(カトゥーン処理、立体表現、影の有無)、画像処理上のフィルターの概念(色・デフォルメ)など、日本画を描くこととの類似性を感じます。「日本画」について、今日的視点をもっての問い直し、定義を考えて見るのも面白いことのように思うのです・・・・。そんなことを考えさせてもらう展覧会でした。 展示によっては、画面の肌までよく見ることが出来ます。日本画らしい絵の具の使い方、線、いつしか時代が今に近づくほど失われた何か・・・・。群青、朱、胡粉、絵の具の美しさも実感できる展覧会です。おすすめの展覧会です。
- ■ 鏡の松制作 その11
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塗ったばかりは画面が湿っており、暗く感じます。絵の具を塗ったときと乾いた時の色が異なる事が日本画を難しく感じさせる要素かもしれません。しかし、目的が写真的な描写ではなく、例えば「松」をどのように理解したか?を描くとしたら・・・。このプロセス自体もある種の理解の表現となるように思います。コンピューターグラフィック制作(3DCG、現在ならカトゥーンフィルターもありますから見かけ2Dもありますね)も、ある意味で似た作業を行っているように思うのは私だけでしょうか。
- ■ 制作の下ごしらえ・準備と下図作成
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このほか、現在ではパソコンの能力も高まり3DCGのアプリケーションも使い勝手が良くなっています。描きたい花の基本的な姿をCADを使って作り、構図や見る視線を自由にすることや、色彩のシミュレーションに使うことも可能です。
- ■ 背景、もしくは余白への作業
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骨描きの項で「骨描きとは、描く対象とそれ以外の空間を切り離す表現そのものでもあります。」と紹介しました。花や人物を見たとき、現実の世界ではかならず一緒に地面や遠景があったり、もしくは部屋などが存在しています。絵画の上でしか存在しない何も無いかに見えるこの切り離された残りの空間を”余白”と呼びます。対象物と余白による表現、この国の絵画が装飾的と呼ばれる一つの要素になっているのではと思われます。こうした空間の存在、表現が当たり前と考えられること自体、ある意味で特別なことなのかもわかりません。※余白:現在では、コンピュターの画像処理技術や、3DCG技術の発達でまた異なった考え方、定義が必要になったようにも思いますが、なるべくわかりやすい表現ということで今回はこのように説明することにしました。
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