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4/1//2011  材料技法

「前衛」について

■ 先日紹介した展覧会、<「日本画」の前衛>展。タイトルの日本画を括弧付きとせざるおえない事情もわからなくはないのですが、加えられた「前衛」と言う言葉自体に、既存の価値観を攻撃するという意味があるのですから、せめて当時の「既存の価値観」とは、はたしてどんなものだったかについて検証する必要があるのは明らかなことでしょう。

また、その部分を提示、明らかにすることによってより「前衛」が輝く様に思います。
 
 
春、ヤマガラ
>> 春、ヤマガラ (77.62KB)

「日本画」の前衛 1938-1949
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/topcontents/news/2011/030901/index.html

同様に、「日本画の革新」について、また「新しい日本画」についても、何をもって「日本画」とするのかを明らかにしていない状況では、「革新」も「新しい」も、そして「前衛」も単なる言葉遊びにすぎません。

暗黙の了解など期待出来ないように思うのです。

すでに私が学生であった頃、私には当時発表される「日本画」と呼ばれている、もしくは呼んでいる絵画が何を革新しているのか、また何を新しくしているのか、理解出来なかったのです。洋画も日本画も無く、さして新しくもない平面絵画として見る事しか出来なかったのです。
たしかに、個別の絵画作品として見たときに心惹かれる物がなかったかといえばそんなことはなく、だからこそ?こうして今でも「日本画」についてなんらかの意味を見つけ出したい、自分なりの定義を試みたいとずっと探し続けているのです。
 
「日本画の前衛」展紹介の記事に「ボチいこ」 http://blog.livedoor.jp/botiiko/ のタニヨシさんよりコメントをもらいました。以下引用です。
 
<もちろん、マンネリの安らかさ、変わらぬことの重さは十分にわかったうえで、すべて学問も芸術も、「前衛」であり続けること、既存の枠組みをラデジカル(根本的)に変革しようという意思を持ち続けることが大切だと、私も思う、そして、前衛だったものは、あっという間にマンネリに変わる。そのときに、一番大切なものが抜け落ちて、表面の形だけが残る。それは堕落に違いない、だからこそ、「前衛」は、しばしば、「基本と伝統」に戻る。そこに隠された本来的なものが、新しさとして甦る。その繰り返しなんだろうね。丸木夫妻の作品、見たくなりました。>※引用終わり

 

 
椿
>> 椿 (52.01KB)

単なる「ワガママかって」ではなく前衛が前衛としてあるためには、攻撃するべき対象を明らかにしなければならない訳で、それが何故「絵画」としてではなく「日本画」として行われたのか?、いわゆる「コンテクスト」が問われるのです。単に否定するだけにとどまらない、否定する事で検証し、本質を明らかにしようとする試みと捉えたいと思うのです。

守られるべき価値の再発見。
失った存在。知りたいからこその「基本」と「伝統」の確認。



ネットのブログで今回の展覧会についての感想を読みました。
「面白い展覧会でした。でも何故「日本画」と断る必要があるのですか?」
「絵は面白かったけど、未だに日本画、洋画と分かれているのかがわからない」

中国には中国語が、韓国には韓国語が、そして日本には日本語があるように、あえて断った「日本画」の意味、私もこの答えを知りたいと思っているのです。