黒い水流の謎
江戸時代、尾形光琳によって描かれた国宝「紅白梅図屏風」、その中央に流れる流水部分の描法は、長い間にわたって謎とされて来たのだそうです。美術全集などの紅白梅図を紹介する解説文では、いくつか考えられる手法が併記されている場合もありますが、かつて多く見られたのは、流水部のベースは銀地であるということを基本とした説でした。1)銀に群青で水紋が描かれていたが、群青は剥落し、それ以外の部分は自然に焼けた。2)銀地に水紋の型をおいてドーサを引き、残った部分を硫黄などで意識的に焼いた。3)型でなく筆にドーサをつけて水紋を描き2)と同様の技法で焼いた。 ※講談社1990 日本美術全集 第18巻宗達と光琳 注釈より その後、2003年から行われた科学調査結果(第一次調査)に基づいた発表は、ショッキングなものでした。<川部分から金属元素は検出されなかった><背景の金地に箔は使われていない>といった内容の研究発表が行われ、<箔を使わず箔のように見せる表現(フェイク説)>といった考え方に基づいてのテレビ番組も作られ、大きな話題となりました。「えッ〜!!!」「ホント?」「凄い!」「????」賛否様々の感想が聞かれたのです。 科学研究費補助金データベース:国宝「紅白梅図屏風」の制作技法・材料(金箔・有機色料・型)に関する調査研究(2008年度〜2010年度)。いわゆる第二次調査では、新たな調査分析装置も用いての調査が行われ、<背景の金地は金箔の可能性が高い><流水部分から銀も検出>といった研究が行われたのだそうです。 その後、2011年10月にMOA美術館、中井先生のチームによって追加調査が行われ、その結果を元に2011年12月16日に熱海MOA美術館で行われた発表で、 背景の金地は金箔である 中央の川の部分は全体に銀箔が貼られており、黒い部分は硫化銀である 黒変していない川の部分にも硫黄が検出された 使用されている具体的な金箔、銀箔の厚みの測定と現代の箔との比較結果といった内容が明らかにされたのです。もちろん箔足についてもふれられました。
この記事、最初に紹介している参考画像は、銀箔を貼った上に筆につけたドーサ液で流水を描き(先に上げた3)の手法)、乾燥後、硫黄粉を蒔いたのち、3日経過させたあとに硫黄粉を取り除いて作成したものです。こうしたネット上で紹介する画像ではその違いが解りにくいとは思われますが、硫化した黒い部分は、もとが銀箔であったということを感じさせないマットな質感に変わっています。ましてや江戸時代の銀箔の厚みを模した箔では、その貼付けた基底材である紙表面の繊維の凹凸をそのままひろい、あたかも紙自体が黒くなったように感じられるモノとなっているのです。先日の記事にも書きましたが、硫黄粉による硫化が「無水」による手法であるからこそ、防染剤にドーサを用いたマスキングが有効となるのです。もちろん、この手法自体が古くから言われて来た「燻す(いぶす)」と表現される手法かどうかについては定かではありません。一般的に銀が無水で硫化し黒くなる反応として知られているのは、空気中の微量な硫化水素によるものだと思われます。「燻す」という言葉からイメージするのは薫製、煙を使う事、煙の中に含まれる成分によって硫化させる、それも「型紙を使用したのでは」と思わせる程の反応を起こさせる為には、かなり高濃度の硫化水素ガスの発生が必要となるのではないでしょうか?。それは大変危険な作業だと思われます。安全にガスを充満させ反応させる手法、ガスを均一に画面全体に当てる手法も制作者に求められることになります。よく言われる「いぶし銀」、結果的な色のイメージから「燻す」という言葉が用いられて来たのではないか?そんなことも思っています。本物を拝見させていただいた時に感じたイメージを私なりに再現してみたのが上記の画像です。手法は二段階に渡ります。第一段階は、最初の画像のように硫黄粉による無水の反応を用います。第二段階ではごく薄い硫黄溶液で銀箔流水部分全体を洗う様にしたのです。
作業を続けると、防染剤として用いたドーサが次第に薄い硫黄溶液に溶け、これまで硫化していなかった銀箔表面が茶色に変化します。筆による描画、マスキングであったことを伺わせる様な、表面のドーサの残り方の違いが溶け出す時間差となって現れ、筆の動きの痕跡が変化速度の違いとなって現れて来ます。一度だけ筆が通った所、二度重なった部分、しっかりと溜めるようにして塗られた部分、スピード感をもって筆をまわした所などそれぞれが残存するドーサの濃度差となっているのです。箔足の部分などに見られる要素も似た様な結果が現れて来ました。
制作過程の紹介でも触れましたが、銀箔を硫化させる時に用いた硫黄粉は大変微細で、また紙の繊維に絡み付きます。今回用いた硫黄粉の反応自体が銀と硫黄が直接密着することによって起きる反応ですから、細かい程紙の繊維の間にも入り、望ましい反応結果となるのです。一方、取り除くには困難を伴う事になります。取り除こうとしても表面にとどまり残っている可能性が高くなるのです。黒変させたい部分はより反応が進んでも問題はありません。一方、本来ならマスキングした箇所は銀箔の色そのままに残って欲しいものですが、ドーサ抜けという言葉もある通り、経年変化でドーサが効かない場所が出来たりもするでしょうし、そうした場合、反応して欲しくない場所でも反応が結果的に進行してしまう可能性が出て来ます。300年の時間経過、画面に残った硫黄分によって現在のように茶色い水流となったのかも解りません。
左画像の特徴的なブルーの色!。日本画の群青色のようにも見えます。硫黄溶液により銀箔を反応させ、ブルー他、玉虫色の様な多彩な色を出す実験で出来たサンプルの部分です。この色を出すのに用いたのは、濃度のごく薄い硫黄溶液。ポイントは水分と反応時間です。科学調査で紅白梅図の流水部全体から硫黄が検出されたとの事ですから今回紹介している実験での化学反応に必要な硫黄分はもともと画面中に存在していることになります。 保存されていた場所の湿気などの影響により、ドーサによる皮膜(マスキング)が弱まり、硫黄分と銀箔が反応し現在のような茶色く見える水流となったと仮定したなら、その反応の過程では、この実験のように群青色のような変化が表面に部分的に現れた事もあったと考えられると思うのです(その後反応はより進行し、現在見られる茶色に変化し、群青色は消滅した)。湿気で得られる水分の量での説明が難しいなら、ある特殊な状況下で水滴が画面についた、もしくは流れるような事があった、それも石灰水などアルカリ性の水溶液(雫など)であり、その修復、応急措置などで水を使って画面を洗浄したことがあった(※あくまで想像、仮定の話です)。または表具、何らかの修復作業で水分が画面に回ったということも考えられます。水に溶けにくいとはいえ、微弱なイオウを含んだ水溶液が画面に存在した可能性を考えるのです。結果的に作られたこのイオウ溶液がドーサの弱まった部分に作用し、生の銀色であった流水部分に化学変化を起こさせ、その化学変化の進行過程、段階で、部分的にでも群青色に見える様な変化が画面中に現れる事があった、もしかしたら、たまたま見たタイミングで<かつて群青で流水が描かれていたのではないか?>という感想をもつ人が出る様な状況もあったかも解らないと思うのです。
左画像をクリックすると大きく表示されます。一番上の変化、よく見て行くと茶色い色の中右隅に青色のような変化が見て取れます。こうした変化がそのような感想を生んだかも解らないと思うのです。最初に紹介した1)の説では、<銀地に群青(絵の具)で流水を描いた>とありました。そしてそれが全て落ち、現状の様になったとの想定です。加えて黒い部分は自然変化。はたして光琳程の腕を持った絵描きがいくら箔の上とはいえ絵の具で描く事を想定した場合、到底これほど綺麗に全て剥落するような描き方をするとは思えません。なぜなら同じ金属質である金箔の上に描いた絵の具がちゃんと残っているからです。また他の誰かが群青を洗い落とした?とするならば同時に皮膜となった膠分も同時に落ち、他の部分と同じ様に黒変してしまうのではないでしょうか?。確かに琳派と呼ばれる一連の表現の中には、流水を群青で描いた表現がある事は事実です。しかし、光琳程の画家が最初の想定と異なりこれほど綺麗に全て剥落してしまうような描き方をはたしてするでしょうか?この説は絵描きとして考えると無理がある様に思うのです。だとしたら、この群青説、絵の具の群青ではなく、「群青色が見えた」のだとしたら、、、、、。そんなことも思いました。しかし、こうした多様な色が銀箔上で現れる変化は、どんな化学反応によるのでしょうか?化学に詳しい方、またお教えいただけると幸いです。^^;あの有名な「紅白梅図屏風」を実際に原寸大で描法再現する話をいただいたおり、もちろん「へたくそ!!」「間違ってる!!」と言われる事があることは、当然覚悟しました。それでも好奇心、謎解きに参加するワクワク感を私は選んでしまったのです。さて皆さんの目にどのように映るか?また謎解き、解明の行方は?研究者の方々に期待です。※!注意!※ 硫黄粉、もしくは硫黄溶液を使っての作業では、状況によって有毒なガスを発生する場合も考えられます。また硫黄粉自体を直接吸い込むことによる健康被害にも注意しなければなりません。このサイトでの技法紹介他はなんら安全を保証するものではありません。もしこのサイトで紹介している情報を参考に作業、実験を行う場合、くれぐれも実施者が全ての安全に配慮し、他の方にも迷惑のかからないやり方を考え、あくまで実施者の自己責任において作業してくださることをお願いいたします。(2月7日追記)※!
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実際に制作してみて、考えたり、気づいた事など。