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9/14//2013  材料技法

日本画の学び方

■ 「絵は自由です。勝手に描いてよいのです」アート・セラフィー、芸術療法と言った言葉も聞くように、ただ描くことだけでもその行為に意味を見つけることは可能です。実際、いたずら書きの楽しさは、誰もが一度は経験したことかもわかりません。
 一方、だとしたらなんでわざわざ絵を学ぶ必要・意味があるのでしょう。また美術館が広く一般に開かれた存在として・また意味ある存在としてあるのでしょう。同時に単なる絵ではなくて、日本画・洋画のように区別するのでしょうか?また、伝統を受け継ぐとはどういうことなのでしょうか?そんなことが気になるのです。そんな疑問を私はずっと考えてきたのです。
 
上げ写しを使って線描きを行う様子
>> 上げ写しを使って線描きを行う様子 (42.33KB)

 かつて日本画の基礎学習は、<運筆・粉本(臨画)・写生>の三本柱によると言われていたそうです。実際、私が求めた古い入門書には、そのように<かつては>という但し書きとともに紹介されていました。

 はたして何が変わってしまったのでしょうか?

 明治中期、この国の近代化は、西洋文化を学んだ若い人々によって先導、行われたと聞きます。

 最近手にした「欧化と国粋」ケネス・B・パイル(松本三之介 監訳・五十嵐暁郎 訳 講談社学術文庫2174)では、当時の社会状況が研究されており、それぞれの場での葛藤が紹介されていました。「家」と「仕事」が一体であった昔、<絵描きの子は、絵描きになる>ことは、当たり前のことでした。描く技術、仕事の進め方、稼ぎ方、生き方も全て、親が子に教えたのです。一方、国家の近代化を西欧に同化して行うにあたって、新しい西欧の文化を吸収し紹介する指導的立場にたったのは、これまでの家父長・年長者では無く、西洋文化に触れた若者だったのです。また、学ぶことは、それまでの生活を変える大きなチャンスを得ることにもなったのです。

 
地塗りをしている様子
>> 地塗りをしている様子 (39.64KB)

 以前紹介した岡山県立美術館での「五姓田の全て」展。幕末から明治期の様子、「美術」がこの国に生まれてくる様子が検証され、紹介されていました。

 展覧会カタログを今見返してみると、巻頭の「五姓田派について」という青木茂氏の文章の中にも「家」であるとか、「狩野派の解体」、「需要層は無かった」などと響きあう言葉が見つかります。同時に、指導的立場に立った人間が「若い義松」であったということにも触れています。

http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/topcontents/news/2008/102701/index.html

 絵を描くことが戦争においての状況把握能力開発であったり、戦況伝達のための具体的技術教育となっていたり。美術教育における鉛筆派と毛筆派の戦いも、その当時の背景を考えながら読むとまた違った感想が湧いてきます。また同時に紹介されている当時の美術教科書のあり方も興味深いものとなっています。

 粉本もしくは臨画という言葉が指し示すものがいわゆる模写であり、写生は文字通りだとしたら、先に紹介した重要な基礎3つの中で、象徴的に失ったものは「運筆」となるのですが、ではこの運筆をどのようにして学ぶのか?ということが気になってきます。
 
 運筆 筆の動かし方

 お手本をひたすら真似て描くこと、一般には模写と言ってよいのでしょうが、一つあえてふれておきたい重要な事があります。それは、お手本から「形」のみならず、筆を動かす速度、「時間」を真似する、読み取ることの大切さです。さらさらと早そうに引かれた、描かれた線が実は大変な時間を掛けてゆっくりと描かれている線であるとか・・・・その違いを見極めて同じ時間、同じ筆の運びで描けるかどうか。そこに作者の込めた思い、現れた筆力を見出そうとして欲しいと思うのです。このことは色を付ける場合にも同じことが言えます。

 琳派の描法を学ぶことの意味には、その特異な意匠性のみならず、「たらしこみ」に見られるように「描く時間」の発見、共感も大きいと思います。そのおりに運筆の具体的な速度、時間を教えてくれるのが「材料の使い方」・「水の性質」なのですが、それがわかりやすくシンプルに行われ、そこに大切にされた価値観があることを教えてくれているのもまた琳派の興味深い所のように思うのです。

 
過程紹介用サンプルの制作
>> 過程紹介用サンプルの制作 (29.64KB)

 天才と呼ばれる人は、なにをどのようにやっても回りの人々が認めざる負えないから天才なわけで・・・・ましてやそれが絵画である必要もないでしょう。

 学ばねばならない者・学ぶことを欲する者。

 人の描いたものから何かを読み取る力。絵を学ぶ時、「描ける程度にしか見えていない」とは、かつて私が聞いた言葉ですが、真似てみようとする行為、取り組みが教えてくれることは大きいのです。
 伝統、つないでいく価値観とは、一人の人だけでは成し得ない価値観ということも出来るように思います。材料や道具、描くもの、描き方、西洋美学的な理解では見えなかった存在にもう一度光を当てられるのもまた若い人たちの試みからかも分かりません。

 長く関わること、長生きし、望めば、多くのことにふれ、また知ることが出来ます。多くの人、先人の工夫、価値観に触れることが出来るのです。天才ではないなら無いなりに・・・・やりようがある。人とつながる学びのあり方には、まだまだいろいろなやり方があるのです。それは同じ時代のみならず、時を超えて友を得る方法になったりもするのではないでしょうか。

※紹介している画像は、実際に真似て描いてみようという試みを行っている様子です。うまく行けば、近々行われる企画展示で紹介することが出来るかも分かりません。