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1/8//2014  材料技法

紅白梅図屏風の300年

■ 熱海MOA美術館に所蔵されている尾形光琳作 国宝 紅白梅図屏風。2011年の秋にNHKの番組内でその再現制作にかかわらせていただきました。加えて年が明けて2012年の2月には関連するテーマの日曜美術館にも出演させていただくなど、岡山の山中に暮らす私にとっては、望外のことが続きました。その後も講演会等で再現作業についての話をとお声がかかったり、あれからずいぶんと時間が過ぎましたが、いただいたご縁に感謝するばかりです。

そして再び、あのおり科学調査を担当された東京理科大学の中井先生のお誘いで、2月16日に熱海MOA美術館で行われる学術を広く紹介する講演会に呼んでいただくことになりました。

文化財を甦らせる結晶学 ―紅白梅図屏風の300年前の姿を復元する
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/topcontents/news/2013/122401/index.html

結晶学の社会への関わり、有効性を広く紹介するイベントだそうです。
私自身は、「光琳に倣う日本の美」と題してお話させていただく予定ですが、紅白梅図屏風の描法再現にかかわらせていただくことで絵描きとして学ばせていただいた事、気づいたことなどを内容としたいと思っています。

以下は、最近行った実験を通じて現在考えていることなど
 
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銀箔に防染剤としてドーサ液を用い流水を描いた後、硫黄粉を撒いて反応させた実験結果です。紅白梅図屏風が描きあがった300年前の「流水」は、この様ではなかったか?という姿です。

 
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300年の時間の経過、現在の姿に似せようと試みて見ました。厳密に言えば、現在よりも少し前と言ったほうが良いのかも分かりません。流水の中に群青色、青さを感じる部分の多い状態です。

 

上記、二枚の画像で紹介している変化は、すでに記事としてアップしている「黒い水流の謎」という考察・実験をより具体的に行ってみた結果です

黒い水流の謎 2/2//2012  材料技法
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/newcon/news/2012/020201/index.html

 
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左画像は、硫黄溶液を使って防染剤のドーサ膜部分も溶かしながら、反応を進めている途中の様子です。300年の時間の経過を早回しで行っていると考えても良いのかもわかりません。

かなり群青色を感じさせる部分が存在しています。

※画像は表面がまだ溶液によって濡れた状態です

 
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乾燥が進み徐々に画面が落ち着いてきた様子です。このあと、黒はより沈み、落ち着いた表面に変わります。

紅白梅図屏風、300年の時の経過の間にはこうした姿を見せた期間もあったのではないか?そして見ることが出来る焼群青色のような部分、色。「かつて流水は群青で描いていたのではないか?」と考える人もいたのは、こういった表面の様子を見たことが原因では無かったかと思うのです。

 
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さて今回の実験を行うに至った経緯は、この記事、一番最初に紹介している画像、300年前の流水は、このような姿ではなかったかというサンプルを東京の中井先生の所に送ったことから始まります。

『古代文化財の謎をとく』―X線で見えてくる昔のこと―11/13//2013  材料技法
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/newcon/news/2013/111301/index.html

制作のための予備のピースとして作っておいたものだったのですが、ちょうど手持ちとしてあったため展示のための参考資料としてお送りしたのです。この時期同時に制作した一連のピースには、共通の特徴がありました。<銀色の部分の反応が通常よりより進んでいるように見えた>のです。

中井先生からいただいたメールにも同様の感想が書かれていました。2011年に制作した再現作品を現在目の前に広げていますが、当時とほとんど変わりません。ドーサ皮膜を反応後、その上全体にかけ、なるべく安定な状態が長く続くように配慮しているのです。もちろん送ったピースにも同様の処理をしています。使用した銀箔が新しく作られたもので、たまたま以前作っていただいたモノより薄かったのかもと考えましたが、その後に同じ銀箔を使った制作では通常と同じ結果となりました。

今回のピースにのみ見られる特徴の原因は何か?

思い当たることといえば、硫黄粉を密着させる反応時間が通常より長く4日半程度であったことでした。3日という日数は大きな意味を持っていたことにあらためて気づいたのです。また反応時の温度、湿度の問題もあったかも分かりません。同時にこのとき、硫黄粉の残留による変化と、気化した(燻した)硫黄化合物の付着によるその後の変化は異なるのではないかということに思いいたったのです。
 
今回のように粉に直接触れる時間が長くなった場合のその後などを見る限り、粉として硫黄が残った場合の反応は、より急激に変化が進み、途中経過・変化の段階が極端になる可能性が出てきたのです。同時に、硫黄粉を使った手法では、粉を払い落とすという行程が存在する以上、現在のような状態になるために必要な硫黄の量がはたして表面に確保されるかどうかについても少々不安に感じます。

完全に諸条件を揃えた比較実験では無いことですし、300年という時間経過の中で紅白梅図屏風に何があったのか、何が起こったのかは分かりません。硫黄と銀が反応して出来る硫化銀による表現ということに関しては、中井先生のチームが明らかにしてくださいました。私も絵描きとして作られた当初は、硫化銀の黒と銀、あのような状態ではなかったかと思っています。

そしてその後の300年!、反応させるために着けた硫黄粉の残留による変化だけでは説明の出来ない何かの存在があるように考えられたことから、硫黄溶液で洗うなどということを試したわけです。また今回の実験によって、<燻すことによって銀箔面全面に付着し残留した硫黄化合物>が、その後の緩やかな化学反応のための硫黄として働いたとも考えられると現在思っています(考えられる水の働き、作用の存在をどのように説明するかについては謎のままですが・・・)。
 

 
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左画像は、硫黄の燃焼によって燻した後、私が本物を間近で見せていただいたおりの屏風表面の記憶をもとに再現を試みた実験です。

銀箔と金箔の境に部分的に現れていた印象的な赤い色、銀箔と金箔の重なり部に現れています。また結晶、もしくは樹脂が乾いた跡のような状態の何かがその赤い色が出ていた部分に認められていましたが、このように硫黄溶液で洗うことによって何かしら似た質感も得られたのではないか・・・・・

もしかしたら、硫黄をそれなりに含んだ水溶液が銀箔を貼った部分の表面を覆ったことがあったのではないか?。もちろん、何故そのようなことがあったのは分かりません。誰かが何らかの目的で故意に行ったのか、それとも不可抗力によってか、たんに300年の時間経過によるものなのか。またその溶け込んだ硫黄分は、墨で描いたのではないかと思われるほどの黒い硫化銀とするために燻したことによって銀箔面全体に付着した、硫黄化合物だったのではないか?

すべては謎、推測に過ぎません。

※気体による硫化 紅白梅図屏風追試実験 12/15//2013  材料技法
http://plus.harenet.ne.jp/~tomoki/newcon/news/2013/121501/index.html

 
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硫黄を燃焼させて燻した実験によって作成したサンプルです。
最短は15分、最長で1時間程度、気体の中に置いて作りました。

その後の変化も見ていますが、反応後に全体にドーサ皮膜を作った結果、大きな変化は見られません。

意図的に硫黄溶液を用いたかどうかは別として、最初に付着した硫黄化合物の絶対量ということも、その後の変化のためには重要な要素となりそうに思うのです。

会場であるMOA美術館、再会することが出来る尾形光琳作 国宝 紅白梅図屏風。実験したサンプルを持って伺おうなどと思っています。

ちなみに講演会当日一日だけ、この2月16日だけですが、屏風に仕立て上がった私が描いた再現作品を会場である能楽堂に飾っていただけることになっています。

 
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※画像はクリックすると大きく表示できます。